レスギンの獅子(4)

 公女の申し出を断ってからしばらくのあいだ、ラドビクは事ある毎にマルクに喰ってかかり、一日中マルクに聞こえるように愚痴った。彼曰く、世の中には礼を知らない騎士がいるだの、心のない石ころが自分の主査正騎士だなんて不公平だの、とにかくこの世の不正の半分はマルクに責任があるらしかった。本来ならば騎士と従者の階級は絶対であり、軽口一つで文字通り首が飛ぶことさえある。だが、マルクとラドビクの間の主従関係はいわゆる奉仕と保護の関係ではない。ラドビクもあと二年か三年で騎士位を得、後にはマルクよりも責任のある地位につかねばならない。これは貴族社会の教育制度なのだ。そういった意味で、所詮にわか騎士のマルクが歴とした貴族の嫡出子であるラドビクを罰するなどまるで現実的でない。何より、あの判断が自分のわがままを通した結果であることは他ならぬ彼自身がよく自覚していたので、マルクはラドビクを軽くたしなめただけだった。
 彼がイーリス行きの誘いを断った最大の理由は、自分が再び身分違いの恋に悩むのではないかという、多分に憶病な理由からだった。ただの数刻言葉を交わしただけで、マルクはかの公女に好意を抱いていた。美貌もさることながら、教養と知性兼ね備え、貴族にありがちな奢りもない。かつて、いや今でもなお、彼が思いを寄せる女性とは個性がまるで違うとはいえ、二人の女性はどことなく似ていると感じられた。それはおそらく、マルク自身がやもすると失いがちな確固とした意志と信念の輝きを、二人の女性に見たからだろう。いずれにしろ、イーリスに滞在するどころか青銅海を渡る船旅の間に、彼は煩悶の深みにはまっていたに違いない。トラヴィスを出立してからの数日、ソロスの王女とポントゥの公女の面影が幾度となく心にちらつき、マルクは孤独のもたらす平安と苦しみを反復した。
 沈鬱な騎士とすねた従者は、ラタールの古都を出立してマイソミア街道を南へと辿った。二月のラタールを吹き抜ける風は冷たく乾燥しており、かりそめの主従のどちらからも公平に体温と活力を奪った。ラタール人は山一つ向こうのロカールの住人と同様、余所者に優しいとは言えない。マルクはなんとか騎士としての最低限の威厳を保っていたから辛うじて宿には困らなかったものの、情勢に関しての情報は期待していた半分も聞き出せなかった。結局ラタールを縦断して分かったのは、住民達が例外無くグロクスティア人を嫌っていることと、この一帯で羽振りが良いのはニカロン男爵ただ一人であることぐらいだった。
 ニカロン男爵の評判はまちまちだった。宿場の客引きなどは街道が寂れる一方だとこぼしたが、街道を外れた村落に泊まったときなどはマルク達の手前もはばからずに、外国人を閉め出した男爵の壮挙に祝杯さえ上がった。いずれにしろ、人々の口に上るのはただ一つ、レスギンの不落の砦とその財宝のことだった。マルクの心はゆっくりと固まっていった。東から吹いてくるイーリスの文明の薫りに触れ損なったのだ、この際、その砦とやらくらいは見ていってやろう。ラタールの旅路が終わろうとする頃、マルクは決心した。
「ラドビク。」
「なんですか、鉄の騎士殿。」
この子爵の息子は二週間を経過して暦が春に変わろうと言う時期になってもまだ、一途に怒りを持続していた。表面だけでも自分を押さえられるようになれば、将来は忠臣として大成できるかも知れない。今のマルクはむしろ、彼の口が災いして惨めに落ちぶれる方に賭けてやりたい気分だったが。
「いつまで騎士を愚弄する気だ。君の父上は君の頭に何を詰め込んでくれたんだ?」
「マルクさん、幾らあなたでも父の悪口は・・・」
「ソーティス卿、だ。父上が君の頭に礼儀でさえも叩き込んでくれなかったようなら、そんな頭は必要ないな、従者よ。」
マルクに彼をいたぶるつもりはない。ただ、まがりなりにも他国人の騎士の前に出ることになるのである。ラドビクにもマルク自身にも、緊張感を取り戻す必要がある。
「し、失礼しました、ソーティス卿。」
ラドビクは蒼くなって答えた。口元がひきつっている。
「自分を取り戻せたようで大いに結構だ。それでは一仕事して貰おう。」
「は。なんなりと。」
「約半日先で街道は二つに分かれる。その近くにニカロン男爵殿の所有される砦がある。わたしはそこを訪問するつもりだ。君に先触れをして貰おう。」
「かしこまりました。」
マルクはわざと冷たくつけ加えた。
「陛下とソロスの名を汚すような真似はしないと信じている。」
ラドビクは転げんばかりに馬をせき立てて駆けていった。その姿が木立に隠れて見えなくなると、やっと溜息を吐いた。こういうやり方は公平とは言えないが、時として必要だ。辺境の砦ともなれば士卒だけでなく騎士とても気が荒い。マルクはレスギン砦で街道筋の情報を仕入れておこうと考えていたが、若造と侮られてはそれどころか関所の通過さえ危うくなる。マルクは鞍袋から鎧を取り出し手早く身につけた。レスギン砦に二三日泊まる間この役を続けるのだから、今のうちから調子を取り戻して置かなくてはならない。

 砦という言葉の定義がこれほどに拡大されることもあるのだと、マルクは思った。レスギン砦は辺境の砦などという生やさしいものではなく、山一つが要塞になっていると言って良かった。マルクが今まで見た最大の城郭はロカールにあるルクソール峠のものだが、それとても攻め難さでこの砦には及ばない。マルクは頭の中で簡単に計算したが、攻撃側は防御側の二十倍は兵力を必要とするはずだ。例え守将がどうしようもない間抜けでも、兵士が千人もいれば食糧の続く限り守り通せるだろう。
 砦の構造を感嘆の目で眺めながらマルクが街道を進んでいくと、彼の到着を数人の兵士が待っていた。騎士こそ出迎えに出て来なかったが、ラドビクはなかなかに上手くやったようだ。街道から見て正面にある補塁に入ると、すぐに城代の前に通されることになった。
 城代は四十過ぎの痩せた小男だった。近衛の青衣とその下の銀一色の鎧で威儀を正したマルクを見る目は、猜疑と不安で落ちつかなかった。
「ソーティス卿とか申したな。ソロスの近衛騎士が何のようだ。」
ジェレッスン=バウ=ミディオンとか言うこの男は、小心者のくせに虚勢も一人前に張れないらしい。
「マルク=レヴィス=グラムソーティスと申します。良い城ですなぁ。ここは。」
相手の不安も何処吹く風でマルクはにこやかに答えた。マルクは目の前の城代を見もせずに窓の鎧戸を開けて、首塁の偉容を見上げてしきりに感嘆の声を上げた。
「何の用かと聞いているのだっ!」
予想よりも怒鳴るのが早すぎて、マルクは驚いた。この程度の人物で城代が勤まるとは、南ロカールはよほど平和なのか。もう少しからかってやりたかったが、わざわざ喧嘩を売りに来たわけではない。最初は威圧的なソロスの騎士を演じるつもりだったが、ここは警戒されるよりもむしろバカだと思わせて侮られた方が動きやすいだろう。
「こ、これは失礼を。私めは、わが国の宰相殿下の命を受けラタールに参った次第で。」「その命とは。はよう申せっ。」
「は。その命というのは、このレスギン砦の視察でございまして。宰相殿下曰く、『ラタールには天下に名だたる城が多く、レスギンの城郭はその最たるものだ』と仰せられまして。かような次第でまかり越した次第にございます。城代殿にもよしなにとのことでございました。」
「ふん。ソロスにはろくな城がないと聞くから、当然と言えば当然だな。」
マルクは心中ほくそえんだ。易々と引っかかってくれた。あと一押しだ。
「さようですな。宰相殿下がご覧になれば、かほどの要害がわが国にもあればと御感嘆あそばすでしょう。」
「そうだろうな。まぁよい、心ゆくまで見て行け。わしは忙しいから誰ぞ捕まえて案内して貰え。」
城代はそれだけ言うと、小うるさそうにマルクを追い払うしぐさをした。
「お許しいただき感謝の至りにございます。」
マルクは城代の前から下がった。挨拶も済ましたしこの城塞をうろつき回る許可も得た。これでもう、別れの挨拶までこの小男に会わなくて済むだろう。

レスギンの獅子(5)

 家令はマルクとラドビクに続きの客間をあてがった。二人は荷物を運び入れて貰うと、普段着に戻って早速砦の中を見て回ることにした。もっともラドビクは、数刻を経ないうちにたちまち飽きてしまった。
「ラドビク、この砦を守備するとしたら兵が何人必要だと思う。」
補塁同士を繋ぐ城壁の上を歩きながらマルクは尋ねた。ラドビクは気のない様子で答えた。目は中腹の練兵場で訓練している傭兵隊の方に向いていた。
「城郭が広いですからねぇ・・・二三千は要るんじゃないでしょうか。」
マルクは眉をひそめた。
「そんなに兵を持ち込んだら、兵士の干物の山が出来上がるぞ。君も三千人の兵士も、一週間もすれば馬を殺して喰うことになるな。」
「ソーティス卿。あなたと違ってわたしは学院で学んだわけではないので、こういう事には疎いんです。」
「ならいい機会だ、防衛戦の基本となるのは食糧だ。まず食糧のことを第一に考える。覚えておくんだ。」
マルクとて、実際に戦場で指揮したことがあるわけではないが、彼が今でも学んでいるソーリアの王立学院は戦術指揮を必須科目にしており、史学や地理と並んでマルクの得意科目の一つだ。実地で上手く講義どうりに事が運ぶとは限らないが。マルクは続けた。
「この辺りの地勢を見れば、辺りに耕地が少ないことは分かるだろう。僻地だから当然だとはいえ、ここの食糧のほとんどはもっと北から運んでいることになるな。そうすると、防衛戦は必要最低限の人数に多少余裕を持たせる程度でやらざるおえない。」
「で、その人数は。」
ラドビクは馬鹿ではないが気が短い。
「補塁に三十人ずつ。もっとも、一番北の補塁はなくても構わないので省くとして百二十人。胸壁と三つの城壁に各五十人で二百人。予備や損失を頭に入れて五百人いれば一ヶ月は軽いだろうな。」
「五百人で?そんなまさか。」
ラドビクは疑いの目を向けた。兵士五百人といえばソロスの騎士団一つにも足らない。
「いや、これでも場合によっては多すぎると思う。食糧の備蓄の少ない時期、そうだな、ちょうど今頃だと五百人でも二週間補給がないと満足に食事が行き渡らないはずだ。それにこれだけの要害だと、あまり人数が多くても有効な使いようがないのさ。」
「そんなもんですか。まぁ、わたしもソーティス卿もただの客ですから、食事の心配は要らないでしょう。」
ラドビクは関心無さそうに首をすくめると、再び傭兵の練兵に目を戻した。
「ソーティス卿。まだ城の中を見て回りますか?」
「退屈そうだな。君は彼らの訓練でも見せて貰うといい。わたしは首塁までいってみる。まだ見たいものがあるから。」
マルクが丘の頂を見上げながら言うと、ラドビクは嬉しそうに表情を崩した。
「では、お言葉に甘えまして。夕食前には戻って下さいね。」
ラドビクが城壁を嬉しそうに降りていくのを見てから、マルクは次の補塁を目指して歩き始めた。

 砦の本体であるはずの首塁は、二つの櫓と堅牢そうな館があるだけの簡素なものだった。その何処にも今は誰もおらず、どうやら通常時は使われていないようだった。何カ所か崩れている場所もあり、保守はあまり行き届いているとは言えない。もっとも、この頂上の首塁を防衛に使うようならばすでに勝敗は定まっているだろうから、この首塁自体無くても構わないのだろうが、城代の怠慢が見えるようでマルクは気に入らなかった。おそらくは城主の城館として使われていたのだろうが、現在は胸壁を見下ろす丘の中腹にかなり新しい城館が立っている。傭兵達の兵舎もそこにある。確かに館がここでは不便だろう。ともあれ、マルクはお目当ての櫓に上ってみた。
 頂上から見る砦の構造は、設計者の意図がはっきりと現れたものだった。砦全体はこの小高い丘の上三分の一程度を覆う形になっているが、丘は北側から東側にかけて勾配のかなり急な崖になっているため、一番外側の城壁の形は上から見るとてっぺんが平たくへこんだ半円のように見える。南西に向いた半円のへこんだ部分が胸壁で、もっとも城壁が高く攻城兵器にも耐えられる構造をしている。あとの部分は高さもさほどではなく、作りもさほど頑丈ではないようだ。ただ、胸壁のある部分以外は城壁の外が勾配のきつい坂になっており起伏も激しい。物見塔も適所にあり、結局のところこの城を攻める軍隊は翼でもない限り正面の胸壁に攻撃を仕掛けるしか無くなるだろう。これがこの砦の設計者の狙いだ。防御側は見張りさえ充分に置けば、数隊を他の城壁への奇襲時に備えて置くだけで胸壁での戦闘に専念できる。胸壁自体も正面がなだらかに開けた坂なので、大型の攻城兵器で攻められることは考えにくいし、奇襲されることもまず無い。もっともこの砦に全く欠点がないわけではなく、胸壁のすぐ後ろ側にそびえる半木造の城館と兵舎は、城壁の外から火矢の届く範囲にあった。防御構造の中で徹底していないのはここだけだった。
 数刻マルクが城郭を眺めて出した結論は、自分ならこの砦を攻める側には回りたくないということだった。包囲陣を敷いて飢えを待つか、何らかの政治手段で切り崩しを謀るならともかく、正面切っての攻城戦は徒に死傷者を増やす愚行に過ぎない。いや、そもそも戦争こそがある意味度し難い愚行なのだから、どんな手段を用いようと愚行には違いないのだろうが。マルクの思索の間に夕日は遥かに見えるマイソミア砂漠の向こうに静かに沈みゆき、レスギン砦のかしこを血の色に染めた。
「夕日よ、我が手を朱に染める夕日よ。慈悲あらばその光で、罪に染まりし我が手の汚れを清めたまえ。叶わぬならばせめてかの人を抱くは我が手にあらず、清き者の手であらしめたまえ。」
感傷的になったマルクは、ぼそりと戯曲の台詞を呟いた。
「詩人がこんなとこでなにしてんのさ。」
唐突に背後からかかった声にマルクはとっさに振り向こうとしたが、手を動かした途端もたれていた櫓の手すり木に細長い短剣が突き刺さった。
「動くんじゃないよ。」
張りつめた殺気がこもっていたが、まだ幼い響きの残る女の声だった。マルクは短剣を眺めて目を細めた。マルクの腕から指数本分しか離れていない場所に突き立っている短剣はタッシュという投擲専用の武器で、柄頭のない鋭利な鉄片である。狙いさえよければ一撃で相手を仕留められる十分な殺傷力があるし、毒が塗られていることも多い。何も塗られている様子はないが、危うく殺されかかったマルクの心に静かな怒りが広がった。
「誰だ。僕に何か用か。」
「訊いてんのはあたしだよ。」
女の声がぴしりと響く。マルクは鼻を鳴らして答えた。
「砦を見物してたのさ。ここから見えるのは砦か砂漠か森だけだろ。他に何を見ろって言うんだ。」
「口が達者だね、グラム人。もう一回だけ訊くよ。何してた。」
マルクの目がさらに細くなる。
「じゃあ、もう一度言ってやる。見物してたのさ、この砦を。」
マルクは言い放つと同時に振り向きざまに剣を抜き打った。マルクの動きに反応して声の主が放ったタッシュがその一刀で弾かれて物見櫓の木の床に突き刺さった。マルクはすぐさま声のした方に身構える。女は間髪入れず三本のタッシュが同時に放ち、正確に彼の喉と心臓と右膝をねらった。マルクはとっさに二本を叩き落としたが、喉を狙った一本はわずかに逸らすのが精一杯だった。マルクの左顎をかすめたタッシュは、マルクの後ろ髪を削ぎ落として飛んでいった。
「ち。密偵にしちゃ腕がたつじゃないの。」
夕日の赤みのせいで声の主ははっきりと見えなかったが、櫓の向こう端に立つその姿は小柄ながらしなやかな狩猟動物を思わせた。長い赤毛の前髪が顔を隠していて、表情は見えない。その腕は次のタッシュを打とうと動いた。
「待て!僕は密偵じゃない。」
「じゃなけりゃなにさ!」
声と同時に腕が振り下ろされる。タッシュを叩き落とそうとグラミカを振ろうとした刹那、飛んでくる音の違いに気付いたマルクはとっさにかわした。危うくかすめたのが目潰しの小袋であることに気付く間もなく、体勢の崩れたところを狙って女は左からタッシュを打ち込んだ。この方向ではマルクは防御のしようがない。
『まずい!』
正確に首を狙ったその一投に瞬間死を覚悟したが、訓練された体が反射的に動き、マルクはその場に倒れて何とかギリギリでかわした。マルクは心の中で舌を巻いた。マルクは剣の技に多少の自身があったが、これ以上かわし続けるのは無理だった。この際やられた振りをしておこう。このまま続ければこの凶暴な娘も自分も無傷では済まない。
「あ・・・ぐぅ・・・」
タッシュのかすめた顎から流れるわずかな血が臭うのを幸いに、マルクはうめき声を上げた。どうせ完全にしとめたとは思っていまいが、油断は誘える。マルクは冷静に隙をうかがった。
「あれ?手応えはなかったんだけどなぁ・・・」
腕の冴えに反して、女は随分と軽率だった。おそらくはマルク以上に場数が少ないに違いない。近づいてきた足音の無邪気さに、マルクは思わず吹き出しそうになった。
「一応生きて・・・るみたいね。どーすっかなぁ。」
女はつま先でマルクを軽くつつきながら真剣に思案した。あれだけ激しく攻撃しておきながら、いざ相手を倒したときの事をわずかも考えていなかったらしい。マルクは苦痛の演技を続けながら、女を観察した。女、いや声の感じからも伺えたがタッシュ使いの正体はマルクより二歳は年下の少女だった。革の半長靴からすらりと伸びた足は健康的ではあったが、その上にタッシュを何本も差した革の剣帯が二本もぶら下がっているのはどうにも剣呑だ。燃えるような赤毛の少女は眉根を寄せてかわいらしく困惑の表情を浮かべていた。先ほどまでの熾烈な攻撃者のその表情と、うって変わった隙の多さにマルクは当惑した。もちろん、顔には出さなかったが。
「とどめ・・・さしたらまずいよなぁ・・・とりあえず、縛り上げて隊長のとこ連れてくか。」
おもむろに服のどこかの隠しから細い鋼線を取り出した少女は、マルクの側にしゃがみ込んだ。少女がうめいてるマルクの腕に手をかけた瞬間、もがいていたマルクの手が少女の指をねじ上げた。
「あっ!」
少女の悲鳴が上がる一呼吸の間に、マルクは少女の右腕を背中にひねり上げ、抵抗する間も与えずにうつ伏せにねじ伏せていた。マルクは愉快そうに、そして多少意地悪く声をかけた。
「ははっ。お嬢さん、幾らなんでも詰めが甘いよ。」
「っきしょう!死んだ振りだなんて汚いじゃないかっ!」
「まぁまぁ、話を聞いて・・」
「くそぉっ!放せっ!」
少女は一瞬にして形勢が逆転したことに抵抗して暴れた。しばらくマルクは宥めようとしたがマルクが声を掛ければ掛けるほど少女は興奮し、一向に大人しくする様子がない。
「なぁ、人の話も・・」
「放せ!人間のくず!グラムのトカゲやろうっ!」
いい加減手を焼いたマルクは、ねじ上げた少女の腕に力を加えた。
「静かにしろ。あまり暴れると腕を折る。」
マルクが冷たい声で囁くと、少女はやっとの事で幾分大人しくなった。
「ふぅ。やっと話を聞く気になってくれたか。」
密偵め、殺すんなら早くしな。」
「さっきも言っただろ、僕は密偵じゃない。ソロスの騎士だ。」
「はぁ?ソロス?」
「そうだ。この砦の客だ。納得してもらえたかな。」
「はん!あんたがソロスの騎士なら、あたしはエディアのお姫さまだよ。」
口の減らない少女にマルクは嘆息した。このまま言い合っていても埒が開かない。腹の空いて気が短くなってきたマルクは、とりあえず手っ取り早く済ますことにした。
「きゃあぁっ!何しやがる!!」
少女が悲鳴を上げて抵抗するのも構わず、マルクは少女の体中からタッシュやその他の危険な代物を一個一個探り出しては武装解除した。
「いやっ!やだっ!ばかっ!」
誰か見ていれば、若い男がいたいけな少女に不埒なことをしている様にしか見えないだろう。眉をひそめてそう考えながら、マルクは黙々と作業を進めた。小柄な体のそこここから出てきたのは、相当に物騒だった。タッシュが六本、目潰しの小袋が三つ、火種入れ、油の小瓶、柄付きの鋼線、砂鉄棍、毒の仕込んである特殊な短剣ネウジュ一本、貼りのない薬の小瓶四つ。タッシュの数もさることながら、その他の装備品は放火や強盗や暗殺用の物だ。少しばかり興味をそそられたが、いちいち聞きとがめてはかえって密偵に間違えられかねない。ただの騎士ならばこれらが何であるか明確には理解できないだろう。
マルクは少女の腕をあまりきつくなり過ぎないように捻り上げたまま、彼女を立たせて櫓のはしに連れていった。
「何する気よ。」
マルクがかなり手早く武器を剥いだせいか、少女の声は微かに震えていた。
「さて、よく聴くんだ。お前さんをこのまま放すから、こっちを向かないでそのまま立っているんだ。僕がいいって言うまでだ。分かったか?」
「ふん。手を離した瞬間に喉にかみついてやる。」
やれやれ、何て女の子だ。女の本性は魔性にありというのは、あながち間違いでは無さそうだ。マルクは一際大きくため息をついた。
「僕の剣の腕は察しがつくはずだ。腕力だって勝負にならないだろ?」
「こっちが気を抜いた瞬間に、間合いを取って切りかかるんじゃないの。」
「そうするならこのかわいい腕を折っておくさ。」
「あんたが櫓を降りてる間に、上からタッシュを飛ばしたっていいんだよ?」
「そう思うなら口にしないことさ。こっちにだって奥の手はある。」
言うなりマルクは離れた。
「いいか?そのままだぞ。」
そういうとマルクは、素早く櫓の下に続く丸太梯子を裏側を伝って降りた。これならば取りあえず下に降りるまで射線が通らない。ありがたいことに上で動く様子はない。マルクの脅しが利いたのだろうか。
 マルクはさっさと下に降りると上を見上げた。上では憮然とした表情の少女が見下ろしていた。夕日の最後の光に照らされて、乱れた髪の間から見える彼女の容貌は凛としていて少年のようだったが、それでもなかなかに可愛かった。
「もういいぞ!」
マルクが声をかけると、少女はさらに表情をむっとさせて怒鳴った。
「おぼえてろ、グラム人!このぉ!いかさま騎士!」
「覚えておくさ。物騒きわまりないお嬢さん。」
マルクは心底愉快そうに笑いながらきびすを返した。後ろではまだ少女がよく通る声で罵っていた。

レスギンの獅子(6)

 レスギン砦での第一日目はマルクにとって満足のいくものとは言えなかった。夕食は一応城の騎士達と一緒にとったが、食事の不味さもさることながらラタール人騎士達の愚劣さには心底腹が立った。
「ソロスの騎士殿はなかなかの男前ですな。さぞや女どもを泣かせたんでしょうな。」
「いやいや、この騎士殿はお若いから、まだ女の味を知らんかもしれんぞ。」
「女の味は知らなくても、男の味は知っておるのではないか。」
四人の騎士の哄笑が食堂に響く。城代の姿はなく、彼ら四人と城代がそう親しくもない様子を見て取れた。小心者の城代と知性の欠如した騎士。マルクは不愉快な様子を努めて出さないように食事を続けた。
「ソロスの騎士と言えばロカール人の血をすすると聞きますが、普通の食事もなさるようですな。」
ロカール人なら傭兵どもにもいくらかおりますな。いかがです青騎士殿。食後の一服に血でも召し上がっては。」
「それはよい。ついでにあの剣が飾りかどうか見れようものだ。」
ラタールの騎士道ここに地に落ちたりといった侮言の数々にマルクは吐き気がした。これ以上自分を押さえる自信が無くなってきたマルクは席を立った。
「失敬する。」
「おうおう。ソロスの獅子殿は逃げ足がお得意のようだ。」
食事を中座して引き上げるマルクの後ろからはまだ侮辱が続いていた。

「ソーティス卿、何故言い返さないのです!あれだけの暴言を吐かれて黙っているんですか!」
食事の間中じっとマルクを見ていたラドビクは、一言も言い返さずに退散するマルクに失望の色を浮かべていた。
「あんな奴等ソーティス卿なら細切れにしてやれるじゃないですか!」
「愚劣と蒙昧は病だ。彼らは病人なんだ。」
マルクは暗い目をして言った。
「彼らが何を言ったとて、剣を抜けばこちらの負けだ。我々はラタールの騎士道を正すためにここに来たわけではない。マイソミアを通り抜けるために情報を仕入れに来たんだ。忘れたか?」
「しかし・・・」
「でももしかしもなしだ。連中の言動をよしとしないなら、自分がああならないように肝に銘じることだ。いいな、ラドビク。」
努めて冷静にラドビクを諌めたが、マルクの心が平静だったかというとそうでもなかった。あの騎士達を寸刻みにしてやった方が、おそらくは世のためになるだろうと考えていた。だが、騎士はともかく先刻の少女の手並みを考えればここの傭兵の質が高いことは良く分かる。一時の怒りに任せて騒動を起こし、あの傭兵達を敵に回すのは考え物だ。それに、城代の前で彼が演じた役割は間の抜けたソロス人の騎士という役割だ。彼らに侮る隙を与えたのはマルク自身であることは間違いない。ともかく、しばらく忍耐することにしよう。そう、数日で彼らとは顔も会わさずに済むようになる。

 部屋に戻ったマルクは早々に床についた。ラドビクはすぐに寝入ったようだったが、マルクは久々に剣を抜いたせいか、血が騒いでなかなか寝付けなかった。マルクは寝具の中で寝返りを打ちながら、今日一日の出来事を反芻した。
 まず、この砦の人事は奇妙だった。レスギン砦とその財宝の噂はラタールに入ってからしばしば耳に届いたし、ダルク=オーウェンノ男爵の狡知なことはこの砦の運用からも分かる。ではなぜ、これだけの要所にこれだけの馬鹿ばかりを集めたのか。騎士達や城代がわざわざあんな演技をしているとは思えないし、他にましな連中がいないわけでもあるまい。明らかにニカロン男爵は意図的にこの人事を行ったのだ。ならば、なぜ。
 その次に、質がいいとはいえ兵の数が少なすぎる。昼間マルクが出した数字は前提として城主が自分であることが入っている。ニカロン男爵ならずとも、敵襲時にあの城代が五百程度の兵数でこの砦を支えられるとは思わないだろう。だが、練兵の様子やあの少女の腕からしても、この砦の傭兵が一流どころの連中なのはよく分かる。もし男爵が金をケチったのだとしたら、わざわざ腕のいいのを雇うはずがない。傭兵の報酬には底値もなければ天井値もない。もし城代や騎士もろとも砦を囮にするならばもっと安い傭兵を雇ったはずだ。意図的に腕のいい傭兵を集めているのはなぜか。
 マルクはどこかからまだ見ぬこの城の所有者の哄笑が聞こえるような気がした。マルクのうちで葛藤が渦巻きはじめた。この不愉快な砦から早く抜け出したいという欲求、そして抑えきれない好奇心。
「数日だけ逗留してみよう。数日だぞマルク。深入りはするな。」
そう呟いたマルクは自分の好奇心の強さに顔をしかめて、寝具をかぶり直した。

 翌朝、マルクは日が昇るのと同時に行動をはじめた。部屋を出る前に左腰にグラミカを佩き、念のために右腰にはジルを佩いた。ジルは平たく言えば短いグラミカ刀だ。グラム人固有の武器であるグラミカとジルは特徴的な反り身の刃を持つ、突いて良し切ってよしの片刃の剣だ。グラミカは通常両手で使い、ジルはその予備のようなものだが、それぞれを左右の手に握ることもある。マルクは何か予感を感じていた。今日はきっとこれを使う機会があるだろう。マルクは愛刀の刃を丹念に調べてから、まだ寝息を立てているラドビクを起こさぬよう静かに部屋を出た。
 最初の目当てはこの砦の書庫だった。マルクの知る限りこの砦は七百年以上使われている。相応の記録は置いてあるだろうし、図面も見たい。場所は昨日ラドビクとうろついている間に確かめて置いたので迷わずにたどり着けたが、半地下の書庫の扉にはあいにくと古びた錠が下りていた。マルクは辺りに誰も人がいないか慎重に確認したあと、ちょっとばかり後ろめたい思いをしながらインチキをした。
「外れろ。」
マルクがそっと指を触れると、錆びた錠前は不承不承といった感じでゆっくりと外れて下に落ちた。石畳にひどく派手な音が響いた。びくっとしたマルクは錠を拾うとさっと書庫に入った。ちょっとした盗賊気分だった。
 書庫の中は期待していたよりも状態が良かった。空気も乾燥していたし、日光も差し込んでいない。ほの暗い部屋を覗き込んでマルクは手早く火を起こして燭台に明かりを灯した。明かりに照らし出された書庫は思ったよりも大きく、書架に平積みにされた羊皮紙の山と竹簡はかなりの量に及んだ。マルクは舌打ちした。羊皮紙はマルクが普段使い慣れている普通の梳いて作られたと違って乾燥したままで置いておくと固まってしまう。霧吹きがなければ開くときに崩れてしまいかねない。取りあえずマルクは羊皮紙の山は避けて竹簡から手に取った。記録は大体年代順に並んでおり、一番古いものは八百年近く前のものであった。奥に向かって調べていくと、古いエディア語の文字は古イリス語の文字に変わり、ラタール語の文字となって約百五十年前で終わっていた。予想していたことだが、ラタールの王朝が無くなって以降の記録は見当たらない。奥には別の書架がありそこには砦の改築時の記録や図面が置いてあった。マルクは幸運に感謝して図面と付き合わせながら記録を読み進んだ。
 記録は大方がいい加減なものだったが、一つだけ非常に精密な数字と描写のあるものが見つかった。それは、二世紀ほど前にラタールの国王が命じたこの砦の改築時のものだった。その改装はほぼ現在の城郭の原型となるものだった。その記録には測量から設計・工事の段階まで、費やされた労働力と費用と時間、案出されたものの使われなかった防御構造物まで全て記載されていて、これ一冊でこの砦の全容を明らかにするものだった。頷いたり小さく感嘆の声を上げたりしながらマルクは貪るように読み進んだ。
 マルクがその記録を大体読み終える頃には、すでに地に落ちる影が短くなっていた。慎重に書庫を抜け出したマルクは、ひどく腹が減っていることに気がついた。兵舎と城館に囲まれた胸壁前の広場には旨そうな匂いが漂っていた。よく見ると、七つある兵舎からは炊事の煙がたなびいていた。どうせ今日の二つ目の目的は傭兵達に話を聞いてみることだったので、マルクは手近な兵舎に近づいていった。きっと、何か分けて貰えるだろう。

 マルクが兵舎の食堂と思しきところを覗き込むと中はまるで貧民窟の炊き出し所の様にごった返していた。
「ん?おめぇ新兵か?…ははん。食いっぱぐれたんだろ。来な。」
「え?」
唐突に声をかけられたので、マルクはまごついた。三十過ぎくらいの赤ら顔のその傭兵はマルクの腕をつかむと、ぐいぐいと中につれていった。男は奥の厨房に首を突っ込むと辺りの喧噪に負けじと声を張り上げた。
「賄い長!この坊主に飯を食わしてやってくれ!新入りらしいんだがこの騒ぎに泡くっちまって食いっぱぐれたみてぇだ!」
「新入り?この時期にか?」
顔に無数の傷がある非常に凶悪な面構えの大男が厨房から顔を出した。最初この傭兵隊の隊長かと思ったが、手に馬鹿でかいしゃもじを持っているところを見るとどうやらこの男が賄い長らしい。山賊の頭領でも通りそうな賄い長はマルクを胡散臭そうに眺めた。
「新入りが来るなんて話は聞いてないぞ。」
「まぁいいじゃねぇか。余所の隊の奴でも一食ぐらい食わしといても罰は当たらん。」
「ふん。隊長はあんただ。好きにしな。」
賄い長はそう言うとごつい手で豚肉を挟んだ黒麺麭と豆のスープが入った器をくれた。何となく勢いに押されて受け取ってしまったので、マルクは今更自分は騎士ですとは言い出しにくかった。マルクはうっかりと青の上衣を着忘れていたので、普段着の上着に下履きでは新入りの傭兵に間違われても仕方がない。
「ほれ、新入り!さっさと食わねぇと盗られちまうぜ。」
「あ、ありがとう。」
 気のいい隊長の言葉に甘えて、マルクは中庭の方に出て物陰に座り、食事を平らげ始めた。マルクは食事をしながら目立たないように傭兵達の様子を観察した。全ての傭兵隊がここで一斉に昼食をとるわけではないのだろう、ここにいる傭兵は百人前後のようだった。傭兵達は休憩中なのか思い思いの場所で昼食をとったり昼寝をしたりしているが、打ち解けた気楽さはあるもののだらけた雰囲気はなく、隊同士の諍いもあまり無いようだ。砦に詰める傭兵らしくないと言えばそれまでだが、マルクは昨夜の食事よりもこちらの雰囲気の方が好きだった。
 傭兵達が休憩をとっている場所から少し離れた日向のテーブルでは、さっきの赤ら顔の傭兵隊長ともう一人髭の白くなりかかった格幅のいい男が差し向かいで話していた。髭の男の方も上衣を着ているので、おそらくはこちらも傭兵隊長なのだろうとマルクは当たりを付けた。マルクは食事を平らげて食器を返すと、傭兵隊長にどう声をかけたものかと逡巡した。さっきの礼を言うべきだろうが、いきなり騎士だと言っても驚くか怒るのが関の山だろう。しかし嘘をつくのも気が進まない。ともあれこの近辺や街道のことを聞き込むにはいい機会だ。マルクは、最初の一言を思案しながらそちらに向かって歩き出した。

 テーブルのそばに寄った彼の肩を誰かが掴んだ。振り向こうとした瞬間に、マルクはいきなり後ろに引っ張られて仰向けに転がった。辛うじて頭は打たなかったが背中をしたたかに打った。埃まみれになったマルクに底意地の悪い笑いが浴びせられた。昨晩の食事で彼に侮言を吐いた騎士達だった。
「ソロスの青騎士殿はこんなところで昼寝ですか。なかなかお似合いですなぁ。」
マルクを引き倒した大柄な若い騎士が言うのに、後ろにいる残り三人の中で一番年長の騎士が答えた。
「リノン卿、この方は我々とは趣味が異なるようだ。野蛮人らしく地べたを這うのがお好きなようだから、一つ君が騎士らしいたしなみを教えてやりたまえよ。」
マルクを引き倒した騎士が握り拳をこれみよがしに作って骨を鳴らした。残りの騎士もはやし立てる。マルクは視線を冷たく向けた。
「何か用ですか。」
騎士達はニヤニヤ笑いを浮かべてマルクを見下ろした。
「はん。まだ騎士の真似事か、小僧?『何か用ですか。』だと?剣一つ満足に振れんくせに一人前のつもりか?」
「ダハル卿のおっしゃるとおりです。この小僧に一つ騎士らしい戦い方を教授してやろうではありませんか。」
若い騎士三人が年長の騎士に追従する。マルクの心に冷ややかな怒りが広がった。この男達は何処まで愚劣なのだろうか。騎士として、いや人としての最低条件さえも満たせないのか。
騎士騎士に挑戦するならば手袋を投げるものです。ラタールの騎士はその程度の儀礼も知らないのですか。」
立ち上がりながらマルクがゆっくりと言い放つと、目の前の若い騎士はいきり立った。
「なんだと!貴様のような小僧に挑戦などするか!しつけのなっていないソロスの犬に教育してやろうってんだ!」
もはや騎士の仮面をかなぐり捨てた男は、前置きもなしに殴りかかってきた。我慢も限界に来ていたマルクは諦めた。もうもめ事を避ける事は止めよう。マルクはその男の拳を受け流してそのまま右腕を掴み、遠慮なしに手首をねじ上げて男の肘に掌を当てた。
「ふっ!」
マルクの口から気合いの声が漏れると、男は悲鳴を上げて転がった。マルクが男から手を離すと男の右肘から先は折れ曲がってぶら下がった。
「次は誰です。」
マルクはもはや冷静でなく、常になく好戦的になっていた。この者達に、自分たちが喧嘩を売った相手が誰なのか思い知らせる必要がある。それは、マルク自身の誇りに加えてソロスの名の問題でもある。足下で哀れっぽい声を上げる男の上衣を、マルクはこれ見よがしに踏みつけた。ラタールの徽章である雄牛をあしらった上衣を踏みにじったマルクは、残りの騎士の紛い物に挑戦するような眼差しを向けた。
「次は誰だといっているんです。何なら三人まとめてでも構わないませんよ。ソロスの騎士を侮辱するとどれだけ高くつくか教えて差し上げましょう。」
男達は明らかに動揺していた。ひょろっとした弱腰の小僧がいきなり豹変し、がっちりとした男の腕をへし折ったのだから当然とは言える。男達が戸惑っている間に辺りには野次馬が増えていた。昼食時に喧嘩騒動が起こるのは気の荒い傭兵のことだからそう珍しくないだろうが、それが城の騎士と余所者の喧嘩となるとそう見れるものではない。傭兵達は興味津々といった感じで辺りを取り囲んでいる。
「くそ、このガキに大口を叩かせておくのか!おまえたち、こいつを叩きのめせ!剣を抜いてもかまわん!」
さっき野蛮人がどうのと口走った首領格のダハル卿が泡を飛ばして怒鳴った。他の二人はおそるおそる剣を抜いた。
「おいおい、騎士さん方よ。」
騎士二人が剣を抜いた様子に例の赤ら顔の傭兵隊長が口を挟んだ。
「幾らなんでも相手はまだ子供だぜ。やりすぎと違うか?」
唐突な横槍に剣を抜いた二人はダハル卿に目を向けた。ダハル卿が返答に窮しているのを見て、マルクはにこりともせずに先に答えた。
「わたしを心配してくれるのなら、彼らが先に剣を抜いたことだけ誓ってください。出来れば正式な立会人をしていただきたいところですが、三対一では決闘とは言えないでしょうね。」
そう言ってマルクは静かにグラミカの鍔口を切った。マルクの血の故国の名を冠した彼の愛刀グラムは昼下がりの太陽を蒼く照り返した。挑戦の印に愛刀を胸元に立てたマルクは、目をしっかりと据えてグラム流刀術の基本型に構え直した。
「あん?しかたねぇなぁ。まぁ、そう言うことなら俺達は手を出さないから、存分にやんな、騎士さん方。」
仲裁を入れたつもりの傭兵隊長は呆れ顔でマルクを見た。マルクは軽く会釈を返した。彼の気遣いは嬉しかったが、この連中に選択の機会をやるつもりはもはやなかった。憶するくらいならば喧嘩を売らねばいいのだ。
 ラタール人の騎士達は、このソロスの騎士だと名乗る小僧が剣をまともに使えると思っていなかった。当節グラミカ刀を持つもののほとんどは伊達であったし、ラタールではそもそもグラミカ刀などほとんど見かけない。この小僧は金持ちかも知れないが、腕っ節でひけを取るはずがない。だが、彼ら予想に反して若造は意外に手練だった。もはや引っ込みがつかないのだが、剣をかまえた二人は後込みして切りかかる様子もなく、虚勢の声だけ何度か上げた。まわりの傭兵達から野次が飛んだ。
「どうした!ラタールの騎士様は二人掛かりでも小僧に勝てねぇのかよ!」
「やる気ねーのかぁ!」
「腰抜けがどっちかよく分かるぜ!」
野次られて二人は頭に血が上った。
「死ね!」
「小僧!」
同時に切りかかってきた二人をマルクは軽くいなした。男達も何度か切り結んだ経験はあるのか多少の殺気があったが、間合いの取り方や気息の運びは素人のそれと言って良かった。対してマルクは、歩けるようになった頃から父に剣を仕込まれ、学院に入ってからは刀術の師範に正式について研鑽を積んだ。そのうえ、やむなくとはいえ人を斬ったことも幾度かある。実力の差は明らかだった。マルクは二三合渡り合ってそれを悟り、それ以上は剣を合わせることもなく二人を片づけた。一人は右肩をもう一人は右手の甲をしたたかに切り裂かれてうずくまった。マルクの手応えからすれば正確に腱を断ち切ったはずだ。しばらくは、いやおそらくはこの後一生剣は握れないだろう。
 マルクは冷静ではなかったが、彼らの命を取るつもりはなかった。だからといって彼らをただ許す気もなかった。身に溢れる怒りの中でマルクが断じたことは、彼らの体に消え去らない印を残すことだった。この程度の傷ならば、騎士を忘れさえすれば生きていけるだろう。それこそがマルクの求めた結果だった。この男達の在りようは『騎士』という概念自体への冒涜である。彼らがこのまま騎士であることは許されない。二人にそれぞれ一瞥をくれたマルクは、殺気に満ちた顔で最後の年長の騎士に目を向けた。
「ラタールの騎士は、礼儀だけでなく剣の使い方も知らないようですね。」
ダハル卿は激高するべきか悲鳴を上げるべきか判断が付かないようだった。この期に及んでの逡巡の様にマルクはじれた。
「貴公に選択の余地を差し上げます。自らにふさわしくないその雄牛の上衣を捨てるか、それとも剣を抜くか。二つに一つです。」
マルクが冷たく言い放った言葉に野次馬は静まった。上衣を捨てることは即ち騎士を捨てることに等しい。マルクがいった言葉は、事実上この年長の騎士を追いつめるためだけの言葉だった。
「き、きさまぁぁっ!」
逆上したダハル卿は剣を抜く手ももどかしくマルクに切りかかった。その雄叫びは、あるいは悲鳴に似ていると言っても良かった。
「それが答えですね。」
冷たく答えたマルクはダハル卿の真っ向上段からの一撃を右手のグラミカで受け、左手でジルを抜き打った。グラム流刀術・二枝剣。本来ならば脇腹を切り裂く技をマルクは相手の手元に打ち込んだ。
「ぎぁぁぁぁ・・・・」
ダハル卿の右手から剣がこぼれ落ち、その手から吹き出る血の中にぼとりと何かが落ちた。この哀れな男の親指だった。うずくまったもはや騎士とは言えない男の姿を見下ろして、マルクは刀を納めた。地に落ちた剣をみているうちに静かに怒りと興奮が退いていき、マルクの心に次第に哀しみと後悔が広がっていった。
「やるじゃねぇか、若いの。」
先ほどの傭兵隊長が声をかけてきた。それをきっかけにマルクのまわりに野次馬が集まった。彼らは口々にマルクの剣技を讃えた。マルクは弱々しく笑った。讃えられるほどマルクの心にやりきれなさが募った。マルクは傭兵隊長に近づいた。
「あの。お願いしたいことがあるんですが。」
「ん。なんだ。」
「彼らを・・・手当して貰えませんか。放っておくと死んでしまうかもしれない。」
マルクは目を覆って言った。
「ああ。承知した。お前、大丈夫か。」
「ええ。ちょっと疲れただけです。では、お願いします。申し訳ない。」
マルクが足を進めると傭兵達は道を空けた。マルクは、重い足取りで客室への道筋を辿った。

 逃げるように部屋に戻ったマルクは両の剣を放り出し、寝台に横たわって目を瞑った。むかつく胸の違和感が、それ自体が心のしこりであるかのようにマルクを苛んだ。先ほどの小さな戦闘が順々に心に浮き上がってきて、マルクは息を沈めるように大きく呼吸を繰り返した。
 マルクは自分の抱えているものがなんであるか余さず理解していた。自らへの疑念。人を傷つけたくはないと思いつつも、結局は騒動を起こし人を傷つけた。技術に驕って人を斬った。戦士として生きる以上、人の命を奪うことは避けて通れない。すでに一度人を手に掛けているにも関わらず、マルクの心の中では未だに人を殺す覚悟というものが出来ていなかった。四人の騎士の命を絶たなかったのは、命を重く思うためではなくただ己の技量を驕ったが故ではなかったか。たった今四人の男を騎士にふさわしくないと断じたにもかかわらず、騎士の心構えがなかったのは本当はマルク自身ではないのか。かれらを懲らしめるなどというのは自分の傲慢ではないのか。身を守るだけならば彼らを傷つけずとも済んだのではないか。自分はただ怒りにまかせて彼らを斬ったのではないか。
 マルクは目を覆って、やりきれなさに目を押さえた。知識と魔術と剣技を兼ね備えた近衛騎士も、その心はまだ明け切らぬ未明のうちにあった。

レスギンの獅子(7)

 マルクの客間にラドビクが飛び込んできたのはそれから二刻も過ぎて、窓の端に西日が差し込みはじめる頃だった。
「ソーティス卿!何をやらかしたんですか、一体!」
半ば怯え顔のラドビクは続き部屋の扉を慎重に続けると小声でまくしたてた。
「いま、城代の部下がこの部屋に向かってますよ!ソーティス卿を捕まえるとかいって武装したのが十人も!どうするんですか!!」
「そうか。」
沈鬱なマルクの表情を見たラドビクは、一瞬マルクの様子をうかがったが、気を取り直してもう一度尋ねた。
「一体どう言うことなんですか。説明して下さいよ!」
表情は暗いままでマルクは立ち上がり、服を着替えはじめた。
「この城の騎士を四人斬った。」
ラドビクに背を向けたマルクがさらりと言うと、ラドビクが息を吸い込む音が微かに響いた。
「・・・なっ、なぜですか!昨日は相手にするなって言ってたじゃないですか!それを今日になって・・・」
「うるさい。」
マルクが静かだが怒りに満ちた声で言い放つとラドビクは黙った。
「連中の挑発に乗ったのは我ながら軽率だったと認める。だが、やってしまったものは今更仕方がない。ともかく城代はこの件で私を裁くつもりだろう。兵はその迎えと言うわけだ。」
「で、どうするんですか。これから。」
「話し合いで解決がつくならそれで良し。さもなければこの砦から逃げる。」
「逃げるってソーティス卿、一体どうやって!傭兵の数に城代の部下を合わせると五百人はいるんですよっ!」
マルクは着替えを済ませて上衣を羽織った。腰にはグラミカとジルの二刀を佩く。
「私一人なら何とでもなるさ。ラドビク、君は私が連れていかれたら荷物をまとめて馬に積んで置いてくれ。話し合いで済むにしろこの砦から出ることにはなるだろうから。」
「しかし・・・」
「私が一刻経っても馬小屋に行かなければ砦を出ろ。兵が動いたり角笛や太鼓が鳴ったときも急いで逃げ出せ。いいな。」
マルクがちょうど身支度を終えると同時に客間の扉が叩かれた。
「マルク・ソーティス卿。御在室ですな。」
「いいな、ラドビク。」
マルクはもう一度念を押すと扉を開けた。扉の外には武装した兵士が待ちかまえていた。どの顔も戦々恐々といった面もちだ。
「ソーティス卿、城代様がお尋ねになりたいことがあるそうです。御同道願えますか。」彼らの代表らしい男がマルクの様子をうかがいながら言った。斧槍を持つ手が震えている。おそらくは昼過ぎの事件の様子が噂で広まっているのだろう。マルクは不機嫌そうに答えた。
「その物々しいなりは何だ?私が君らを皆殺しにするとでも思うのか?」
兵士は返答に窮して言葉を探している。
「と、とにかく、城代様の命にございます。」
「まあいいだろう。案内しろ。」
「わ、わかりました。それと、腰のものをお渡しいただければ・・・」
「十人掛かりでもまだ不安なのか?どうしても私の剣を奪いたいというのなら、試してみたまえ。」
マルクがグラミカの柄に手を置くと兵士達の顔が青ざめる。何人かはひきつった顔で得物を構え直した。
「い、いえ結構です。そのままで結構です。」
兵士の代表はそう言うとマルクに道を空けた。
「こちらです。どうぞ。」

 砦の会見の間の奥にはニカロン男爵の黒豹の旗が掛けてある。その下には神経質そうな表情を浮かべた城代と、四人の騎士のうち二人、そして少し離れて二人の傭兵隊長がマルクを待っていた。最初に口を開いたのは指を失ったダハル卿だった。
「な、何故この男の武器を取り上げないのですっ!城代っ!」
マルクの方を一度見たあと、ダハル卿ともう一人の騎士は椅子の上で身を引いた。二人は右手を布で包んでいた。顔がひどく青ざめていたが、それは失血のためだけでもないだろう。城代の方はというとやはりマルクの方に恐れの眼差しを送っていた。マルクを呼び出したのは城代なのに一向に口を開く様子もなく、マルクと視線が合うと二度唾を飲み込んだ。仕方なくマルクは口を開いた。
「私が何か武器を取り上げられて捕らえられるようなことを致しましたか?城代殿。どうしても必要だと仰せならば武器を預けも致しましょうが、それなりの理由もお聞かせ願いたいですね。」
「だ、だまれっ!貴様がわしにした狼藉を忘れたというのかっ!」
ダハル卿は恥も外聞もなく叫んだ。
「狼藉ですか?私はいきなり殴りかかられた上に切りかかられたので身を守った覚えはありますが、狼藉など働いた覚えはありません。」
マルクは冷然とダハル卿を見据えた。その心には先ほどの後悔が形を変えて再び訪れていた。この男の行いを正すなど、やはり自分の傲慢であった。この男は死に瀕してさえも愚かであり続けるだろう。
「それはともかく、城代殿は私に何用でしょう。これだけの物々しいお迎えをよこすのですから何か重要な用件だとお察しいたしますが。」
マルクはさも怪訝そうに城代へ目を向けた。緊張もいらだちも一切外に出さずに落ちついた様子を装っていたが、心中では脱出時の段取りを必死で計算していた。
「ソ、ソーティス卿。じじ、実は今日の昼のことで、ダハル卿から、な、なんでも話があるとか・・・・」
城代は自信のなさを隠しもせずに話し始め、その語尾はマルクが不快そうな表情を浮かべると微かになって消え失せた。
「私には話すことなど何もありませんが。」
「き、貴様っ!われらにあれだけの狼藉を働いて置いて話すことは何もないだとっ!城代、こ奴は我らにいきなり切りかかりわしの指を切り落としたのですぞ!男爵の従兄弟であるこのわしの指をっ!こ奴を捕らえて男爵に突き出すべきですぞっ!」
マルクは何故この男がここまで身勝手になれるのかやっと合点が行った。ニカロン男爵の従兄弟であるというその一事で、この砦では全て思うがままになると考えているのだろう。虫がいいとはこのことだ。マルクは思案した。この人間のくずの思い上がりを正すのは無理として、その災いが及ばないようにしなければ。
 マルクが呆れて沈黙しているとあの赤ら顔の傭兵隊長が口を開いた。
「城代殿、発言をお許しいだだけますか。」
「パーボ。そちはその場で様子を見ていたのだな。そなたの見ていた様子を話せ。」
弱り切った様子の城代は幾分ほっとした顔で助け船に乗った。
「しかし城代!」
「何か不服でも?」
口を挟もうとするダハルに、マルクは鋭い視線を浴びせた。手はさり気なくグラミカに掛かっている。
「ぐっ。」
ダハルは青ざめた顔で歯を食いしばった。
「さて、私が見た限りの部分を御説明いたします。」
パーボはマルクが引き倒されたところから一部始終を話した。マルクが殴りかかられて逆にその騎士を叩き伏せたこと。ダハルの命令で二人の騎士が剣を抜いたこと。マルクがダハルと二人の騎士に手傷を負わせたこと。マルクが彼らの手当を言い出さなければおそらくは皆失血で命が危なかっただろうこと。マルク自身はその話を聞きながらマルクは後悔した。殴りかかられた直後に問答無用で四人を斬り捨てて、早々に砦から退散しておけば後腐れがなかった。あるいは、傭兵隊長の仲裁を受け入れておくのだった。パーボはマルクの剣術がおそらく一流の傭兵で通るだろうとつけ加えて話しを締めくくった。パーボの見立てはともかくとして、一切偽り無く話してくれたことにマルクは深く感謝した。この恩義は忘れてはならない。
パーボが話し終えると広い会見の間にしばし沈黙が訪れた。ダハルは拳を震わせてパーボを睨んでいるが、傷で意識がはっきりしないのかときどき焦点が合わないようだ。城代は話を聞いている間にさらに困惑の表情を大きくしていた。
「クラース。パーボの話に偽りはないか。」
「ええ。」
城代はもう一人の初老の傭兵隊長に尋ねたが、簡潔な返答は彼の困窮を確認しただけのようだ。城代はほとんど怯えるような様子でマルクとダハルを見比べた。出来ればダハル卿の言うなりにしたいのだろうが、どう道理に照らしてもダハルの言い分に理はない。
「ソーティス卿。ご足労いただいて申し訳ない。お帰りいただいて結構です。」
城代は溜息を一つついたあとやっとの事でマルクに言った。
「な、なんだと城代!」
ダハルが激高して立ち上がろうとした。城代は顔をこわばらせて椅子の上でダハルの怒りから身を引いた。マルクはこの様子を見かねた。
「城代殿。砦の訪問を切り上げさせていただきたく思います。」
「な・・・あ、そ、そうか。大したもてなしも出来なんだが。」
「いえいえ。ご歓待痛み入りましたとも。」
マルクが一礼すると城代はほっとした様子で礼を返した。
「な、なにを・・・」
「パーボ、クラース。ソロスの騎士殿を丁重にお送りして差し上げろ。」
ダハルが抗弁する間も与えずに城代はマルクを送り出した。最後の最後で城代には礼儀とわずかばかりの機知が戻ってきたらしい。怒りに言葉もない様子のダハルを尻目にマルクは部屋を出た。

 二人の傭兵隊長に付き添われてマルクは砦の正門へと向かった。
「パーボさん、クラースさん、お二人には御礼を言わなくては。お二人が証言して下さったおかげで、ダハル卿も無理強い出来なくなりました。感謝いたします。」
マルクが歩きながら礼を言うと、二人の傭兵隊長は笑って応じた。
「わしは一回頷いただけで、他にはなんもしとりゃせん。礼には及ばぬよ。」
「俺だってあんたのために嘘をついたわけじゃない。あったことを言っただけだから、それでおとがめなしなのはあんたが間違ったことは何もしてないだけの話だ。」
「実を言うと、本当に間違いを犯していないか自信がないんですよ。」
マルクはわずかに眉根を寄せて話した。
「あの騎士達を傷つけずに済ます方法があったんじゃないか、と。」
マルクがいった言葉にパーボは呆れ顔を浮かべた。
「さっきのダハルの様子を見てもその台詞が出てくるとは、あんた人が良すぎるんじゃないかね。俺はむしろ、連中の息の根まで止めてしまった方が良かったと思うが。」
「いや、それは・・・」
マルクは言葉を濁した。例えそれが最良の方法だと分かっていても、マルクは躊躇うこと無く殺人に踏み切れはしないだろう。
「ソーティス卿。わしはあんたのやり方で正しいと思う。」
クラースの方は静かな口調でマルクに答えた。
「わしはもう四十年近く傭兵を生業にしとるが、この年になってみると自分が手に掛けた相手のことが今更ながら思い出されてならん。まだ若いのもいたし、女もいた。自分の身を守るためのこともあったし、雇われ仕事のこともあったが、どんな連中でもわしが殺さなんだらまだ生きとったかもしれん。殺さずに済むならその方がいい。」
マルクは神妙な顔つきになっていた。この老傭兵の言うことは何となく理解できた。マルクは最初の殺人を犯したとき、何かが自分の中で壊れるのを感じたし、世界を見る目が変化したのを覚えている。
「なにもこんな時に説教ぶたなくてもいいじゃないか。」
パーボは少し嫌な顔をした。散々聞かされた台詞に違いない。
「はは、そうじゃな。若いのをみるとつい愚痴っぽくなっちまっていかん。」
クラースは苦笑した。
「ところでよ、ソーティス卿。」
「あ、マルクでいいですよ。」
「そうかい。ならマルクよ、あんたこれから何処へ行くんだ。東に戻るんなら何人かうちの隊から付けてやろうか?」
パーボは多少違和感を顔に出しながら言った。騎士を姓でなく名で呼ぶのはなかなか機会がないからだろう。
「いえ、マイソミアを抜けてソロスにかえります。」
「マイソミアを二人でか?止した方がいいぜ。マイソミアの砂漠は隊商でも危ねぇ目に遭うんだ。まぁ、ここんとこ山賊の類はまるで心配はねぇけどな。それでなくても難所の多い道だ。砂漠を渡ったことのある奴がいなきゃまずミネアまでたどり着けないぜ。」
パーボは真剣な調子でマルクを止めた。
「山賊が以前みたいに出ないのなら心配要りません。あの街道は何度か通ったことがありますし、何カ月かマイソミアで暮らしたこともありますから。」
「ほぉ。パーボ、どうやらわしらはまだこの騎士殿を見くびっていたようだな。」
クラースは感心してマルクを眺めた。背が高いものの頑健とは言えない体格と軽薄そうな顔つきでマルクは損をすることが多い。
「それでも俺は止めた方がいいと思うがねぇ。まぁ、行くんならしょうがねぇな。」
「心配してもらって感謝します。」
パーボは納得のいかない顔で肩をすくめた。
「いいさ。お節介ついでに食糧やら水やらを分けてやろう。」
「荷馬も持っていくといいだろう。そっちはわしの隊で出そう。」
パーボとクラースの申し出にマルクは驚いた。見ず知らずの相手にここまでしてくれるとは。
「それはいけません。こちらはお返しできるものも大して・・・。」
「こう言うときは受け取っておけよ。お前さんがのたれ死んだらこっちの夢見が悪いだろ?」
「しかし・・」
「あって困るものではない。ではないかな、騎士殿。」
マルクは息をついた。この好意は決して忘れまい。
「分かりました。ありがたくお受けします。」

 厩につくと、まだ約束の時間には早いがラドビクはそわそわしながら待っていた。マルクが近づくとほっとしたように溜息を一つついてからマルクの横にいる見慣れぬ二人に視線を送った。
「ソーティス卿、こちらのお二方は?」
マルクは紹介しようとして、自分たちが正式に紹介も済ませていないことに気がついた。「あー、紹介します。これは私の従者でラドビク=オウス=ノロード。私自身の紹介も済んで居ませんでしたね。ソーリア王家に忠誠を誓う近衛騎士でマルク=レヴィス=グラムソーティスです。」
二人の傭兵隊長はマルクに応じて口を開いた。
「俺はルキウス=パーボ。ロンダール人だ。」
「わしはジェセン=ダウ=クラース。ミシュラール人だ。知っての通りわしらは傭兵隊長をしとる。」
紹介が済むと沈黙が訪れた。マルクとパーボ、そしてクラースはなんとなくお互いに顔を見合わせたが、パーボが吹き出すとラドビクを除く三人は笑い出した。
「ははは!これから別れるってのに自己紹介もねぇよな!」
「まったくです。・・・でも、もしかしたらまた会う機会があるかも知れません。その時にはご厚誼のお返しを致しますよ。」
「ああ。期待してるぜ。俺とクラースはちょっくら荷馬の用意をしてくるから、ここで待っててくれ。」
笑いながらパーボとクラースは傭兵の宿舎の方へ歩いていった。
「あのお二人、荷馬とか何とかおっしゃってましたが。」
二人が行ってしまうとラドビクが尋ねた。マルクは上機嫌でこの一件の一部始終を話して聞かせた。
「まぁ、そういうわけでこの砦の訪問も約一日でおしまいだ。」
「そうですか。何にせよ無事ソロスへ帰れるんでしたら言うことありませんね、ソーティス卿。」
ラドビクはほっとした風情で答えた。
 二人の傭兵隊長と数人の部下が荷馬を連れてやってくると、マルクとラドビクは彼らとともに正門へ向かった。夕日はもう落ちかけていて、薄曇りの空を茜色に染めていた。
「それでは、お世話になりました。お二方とも、また会う機会があればその時にご恩をお返しいたします。」
「ああ、元気でな。俺も春にはこの砦からは出ようと思っているから、次はロカール当たりでばったり会うかもしれん。」
「砂漠越えは難路だから気を付けてな。水は欠かさず補給するようにな。それと蠍には・・」
「クラース。くどいぜ。」
「おっと。いかんいかん。」
マルクは笑って一礼し、さっと馬上に登った。
「それでは、また。」
ラドビクも続いて馬に乗り、二人は正門の外へと馬首を巡らせた。正門を抜けると丘の眼下には夕日に照らされた木々とその彼方に広漠たるマイソミアの不毛の地が望めた。
「ソーティス卿。」
「ん?」
馬を進めながらマルクはラドビクの方を向こうとした。その時、マルクの耳に何かが風を切る音が聞こえた。上を見上げたマルクの目に映ったものは、朱の空を飛び来る数本の矢の姿だった。
「なにっ!」
とっさにマルクは馬上に身を伏せ、声を上げた。
「ラドビク!」
「うあぁ!」
マルクが横を見やると、彼の従者の体は馬上から落ち掛かっていた。その左肩を長弓の矢が深々と射抜いていた。

レスギンの獅子(8)

 夜半過ぎの客室からの眺めには、四方の木々の影の中にあまたの篝火が見えた。マルクはその篝火の数を概算した。兵の数は三千を下らないだろう。おそらくは四千を超える兵がいると考えて間違いない。敵の正体は判然としていなかったが、これだけの兵を派遣するとなると単独の軍隊ではラタールの二伯爵家かグロクスティア帝国くらいしか考えられない。敵の正体がなんであれ、この軍隊の攻撃の対象がレスギン砦であることだけは間違いなかった。マルクにとって重要なことは、彼とラドビクがソロスに帰るどころか砦から出ることも危ういことだった。
 門を出てすぐに矢の的にされたあと、マルクはラドビクを連れて砦に引き返した。パーボとクラースは隊の傭兵を集めて撃って出ることも考えたようだが、それはマルクが押し止めた。強行偵察は敵の概要が分からないうちに行うものではない。ましてやこの砦の兵数は決して多いとは言えない。篭城戦になるであろうことを考えれば無駄な出血は避けるべきだった。
 ラドビクが手当されて元の客室へと運ばれると、マルクは城代のところへと赴いた。ラドビクを置いてはいけない以上、もう一度城代に会って話をつけなければならない。先の会見の様子からすればダハル卿のごり押しで砦の外に放り出されかねないし、出来ればこの砦の兵数や糧食の備蓄を正確に把握しておきたかった。城代の執務室にいきなりマルクが入ると、城代は突然の闖入者に驚いた。
「城代殿、事情は伺っていることと思います。我が従者が手傷を負いまして、申し訳ないが彼が動けるようになるまで逗留を続けさせていただきたい。」
城代は渋い顔をしてマルクを見た。
「従者は動かせないのかね。なるべくなら、早々に立ち去っていただけるとありがたいのだが。」
「残念ですが。肩口を射抜かれましてね。おそらく数日は身動きもなりますまい。」
「では致し方ないでしょうな。ただし条件がある。」
「条件?」
マルクは怪訝そうに眉を上げた。選択の余地はほとんど無い以上、この際どんな条件でもマルクは呑むしかない。
「出来ればあなたと従者は部屋から出ないで貰いたい。」
城代の考えは納得がいった。これ以上やっかい事を引き起こされては叶わないと言うのだろう。マルクは軽く肩をすくめた。
「構いませんよ。どうせ篭城戦が始まってしまえば私たちは用無しですからね。」
「は?篭城戦だと?」
城代は顔色を変えた。
「盗賊か何かではないのか。あなた達を襲ったのは。」
「盗賊は武装した騎士を襲ったりしないものですし、射手を二十人も用意しないものです。何処のものだかは知りませんが、間違いなく軍隊ですよ。」
城代は信じられないと言った愕然とした表情をしていた。目は落ちつかなく動き、マルクの表情に冗談の欠片でも探そうとしたのか幾度かマルクの顔を眺め、何か言いたそうに口をパクパクと開いては閉じた。マルクはお構いなしに尋ねた。
「この砦の兵数はどれくらいですか。」
「兵数?・・・ああ、傭兵が600くらいで男爵の兵が100に足らない程度だ。」
マルクは頭の中で計算した。防衛に必要な数は揃っている。だが、野戦で勝負できるだけの数はいない。
「なるほど。大体予想通りですね。篭城するのが上策でしょう。それで、食糧はどれくらい持ちますか。」
城代は呆然としてなんとか続けて答えようとした。
「食糧は・・・調べさせてみないと・・・」
「早めになさるとよろしい。充分に食糧がなければ敵よりも飢えと闘う方がきつくなるでしょう。」
城代はこくんこくんと何度も頷いた。
「それでは、従者の様子が心配なので失礼させていただきます。約束を守って客室から一歩も出ませんよ。では。」
マルクは自失の呈の城代を部屋に残して客室へと戻った。城代があの調子では、篭城戦はかなり厳しいものとなるだろう。だが、それはマルクの関わることではない。マルクにとっての気がかりはラドビクの負傷の程度であり、この砦をいかにして安全に抜け出すかであった。

 客間に帰ると隣室でラドビクは傷の手当も済んで寝ていた。傭兵隊のものが肩の傷を手当してくれて矢はもう抜けていたが、かなり強い薬で眠らされたにも関わらずひどくうなされていた。マルクが額に手を当ててみると熱がかなり高かった。肩を射抜いた矢が衝撃で鎖骨を折ったのだろう。傷口の痛みと骨折による発熱は命を奪うことはないが体力を消耗させる。ラドビクが動けるようになるのに少なくとも一週間近くかかるだろう。完治するまでだと篭城戦が終わりかねない。城代が決して有能とは言えない以上、落城は遅いか早いかの問題でしかない。篭城戦は突き詰めて言うと統率者の精神力次第だと言っていい。ラドビク自身の安全のためにも、ここはラドビクの体力と若さが予想を裏切ることを祈るしかない。マルクはラドビクの額の汗を手拭いで丁寧にふき取った。
 ラドビクのうなり声のせいもあってマルクは寝付けなかった。窓から見える砦の外は正体の知れない敵の篝火で満ちていたし、砦の中にも別の敵がいる。神経質なわけではなかったが、マルクの張りつめた緊張は容易にほぐれなかった。夜半を回る頃マルクはやっと夢うつつの微睡みに落ちかけたが、静かにドアを叩く音がその安息の前触れを破った。
「マルク、起きているか?」
その声はまだ一日も経たないうちに聞き覚えのあるものとなっていた。傭兵隊長・パーボだった。マルクは毛布をまくって半身を起こすと、怪訝そうに顔をしかめた。今時分に何の用だろうか。
「起きています。今扉を開けます。」
「こんな時間に邪魔してすまんな。」
そう言うとパーボは部屋に入ってきた。まだ暖かい部屋に一瞬肌寒い空気が入ってきてマルクの肌を冷ややかに撫でた。マルクが扉を閉めて椅子を勧めると、パーボはどっかりと椅子にまたがった。椅子の背を抱いて座ったパーボは金属の鎧に身を包み込んだ武装姿だった。
「何かあったんですか?」
暖炉の消えかかった火種を起こしながらマルクは尋ねた。パーボの顔を見ると至って真剣な表情だ。
「マルク、実はある話をちょっとばかり小耳にはさんだ。お前さんに関わりのあることだ、と思う。」
パーボの歯切れの良くない台詞に興味を引かれて、マルクも上っ張りを一枚羽織ると向かいの椅子に座った。
「さっき、うちの隊の当直の連中を見回りに行こうとした時なんだが、中庭でダハルの声が聞こえてな。気になって声のした方でへ行ってみたんだ。そしたら、館の楼台でダハルが誰かと話していた。全部聞き取れたわけじゃないが、お前の名前と『戦履召喚』とか言う言葉が聞こえた。お前、意味分かるか?」
「『戦履召喚』・・・ああ、そうか。リゲッシュ・・・・『戦時誓約履行による騎士の召喚』の事か。」
マルクは今ではあまり使われない古エディアの騎士典範の一節を思い出した。
「なんだそりゃ?どういう意味なんだ。」
今に至るまで各国の騎士によって連綿と受け継がれているとは言え、『騎士典範』はマルクにとって記憶の片隅に残っているに過ぎない。記憶を掘り起こしながらどう説明したものかマルクは考えた。
「あー、ソロス語の『リゲッシュ』は・・・『名誉ある参戦の依頼』とでも言えばいいんでしょうか。手っ取り早く言うと、不正義に苦しめられている権威者は使命を帯びていない騎士を召喚することが出来るって決まりですよ。正しくは、騎士は正義と名誉のための依頼を断ってはならない、って事なんですけどね。」
「それがお前とどう関係があるんだろう。」
マルクは椅子に深く座りなおして思案した。
「この砦はある意味、『不正義に』苦しめられている事にもなります。なにしろ、丘の下には得体の知れない軍隊が攻撃の準備をしているわけですからね。となると、城代がいわゆる『戦履召喚』を周囲の騎士に布告すれば、止む終えない事情がない限り布告を聞いた騎士はその依頼を断りきれないわけですよ。」
「それで?」
「城代が布告してそれを知らしめられる範囲にいる騎士はたった一人、私だけでしょうね。なにせこんな辺境ですから。」
「ははーん。分かった。連中はお前さんを城の守備に駆り出そうってわけだ。その上で・・・」
「そうでしょうね。『戦場では矢は前からしか飛んでこないとは限らない』でしょうから。」
マルクの台詞にパーボは大きく頷いた。
「連中の考えそうなことだ。だが、お前さんに『止む終えない事情』って奴があればいいんだろ。」
マルクは嘆息して答えた。
「残念ながらいいのを思いつきそうにありませんよ。それに理由が何であれ、断ったらそれを理由に密偵の嫌疑を掛けられかねません。いや、きっとそうするでしょうね。」
パーボは鼻を鳴らした。至極面白く無さそうな顔つきだ。
「奴等に上手くはめられたって事か。なんとかならねぇかなぁ。」
「城代が布告を出せばの話ですからね。布告が出なければ問題ありません。城代は部屋から出ないことを条件としてこの砦に私が逗留する事を認めたんです。城代もこれ以上の騒動は好まないでしょうから、布告は出さないでしょう。」
「いや、城代に期待するな。あいつはダハルの言いなりさ。」
「それはまたどうして。城代の方が役回りは上でしょうに。」
「あいつは元々商人上がりでな。ニカロン男爵の金勘定をしてたのさ。だから計数には多少明るいがてんで腰が引けてる。ダハルは男爵の従兄弟だから無視もできねぇのさ。」
マルクは何度か頷いた。騎士階級の出ならば少なくとも狼狽を人に見せるのはよしとしない。胆力に欠ける城代は、ダハルに恫喝されれば言いなりになるしかないのだろう。
「そうですか。なら私は逃げようがないわけですね。今夜中に砦から逃げ出せば心配もしなくていいのでしょうが、ラドビクを置いて行くわけにもいきません。」
「だがおめぇ、それじゃ闇討ちされるのは目に見えてるぜ」
「何とかなりますよ。ともかく、知らせていただいただけでも感謝しなくては。」
マルクは微笑んで答えた。
「ふぅ。わかった。とにかく気をつけろよ。お前が後ろからばっさりやられたひにゃ、こっちの夢見が悪いからな。」
パーボはそう言って立ち上がった。去り際、一度立ち止まったパーボはマルクの肩を二度軽く叩いて出ていった。今日知り合ったばかりなのにパーボは何度もマルクに好意を見せてくれた。いずれ彼の好意に応えよう。マルクは心にそう刻み込んだ。
 寝台に潜り込んでからもマルクの頭脳は静かに思考を続けていた。パーボには言わなかったが腑に落ちない点が一つだけあった。ダハルとその一党に騎士典範をそらんじるほど記憶しているものがいるとは思えない。ならば、この巧妙な心理と法規の罠を仕組んだのは誰だろうか。それを類推するにはまだ欠けている部分が多すぎた。ともかく、ダハルの後ろには誰かがいる。そして、そいつはマルクを疎み、消そうとしている。それははっきりしていた。
 城代、そしてダハル。優秀な傭兵。謎の敵。さして複雑ではない配置の裏には、何かの意志が働いている。その意図するところは何か。マルクの思考の糸は蛇行しながら迷宮の中をさまよい、そのまま微睡みの中へと消えていった。

レスギンの獅子(9)

「そ、その・・・ソーティス卿。話はご理解いただけたかと思いますが・・・・。」
マルクは表情を変えずに城代の揺るぎがちな瞳を見据え続けた。城の会見の間には城代の他にダハルとリノンの二人の騎士と数人の従者がいるだけだった。入り口を数人の兵士が固めていたが、他の者はほとんど城壁にいるに違いない。城壁の外では得体の知れない敵の軍勢が次第に全容を表しつつある。その圧迫感は砦の中にまで伝わり、周囲の空気を緊張で満たしていた。
「ソーティス卿、どうかお気を悪くなさらないで欲しいのだが・・・」
「気を悪くなどしていませんとも、城代殿。」
平静な口調でマルクは城代の言を遮った。実際、マルクは怒りを覚えてはいなかった。すでに予期していたことなので驚いてもいなかった。マルクの心を占めていたのは、相手の意図を正確に把握する事、その一事だけだった。
「この砦の危急の折りに助力を求められるとは光栄の至りです。」
戦履召喚に応えるのは致し方がない。少なくとも二十以上は断りの口実を思いつけるが、どれを口にしてもマルクに与えられるのは騎士としての名誉ではなく密偵としての恥辱と死だけだろう。
「では、典範の定めるところにより誓いを交わすとしましょう。」
マルクは今朝方やっと典範の詳しい内容を思い出していた。戦履召喚は召喚主と騎士の双方が誓約の言葉を交わすことで成立する。召喚者のの誓約は常に決まっているが、騎士は言葉を自分で定めなければならない。
「ん、うむ。・・・あー、我、ジェレッセン=バウ=ミディオンは神々と・・・精霊の御名の下に誓うものなり。うー、かの者が助力を終えるときまで、かの者の言は我が言葉、あー、かの者の行は我が行なり。」
城代は横の侍従に誓言を逐一囁かれながら何とか宣誓を終えた。おそらくはダハルに教えられたのだろう。そのダハルは城代の横の座から憎々しげにマルクを凝視していた。
 城代の誓約に続いて、次はマルクが誓約を述べねばならない。騎士の誓約は召喚者の誓約に比べ意味が遥かに重い。騎士はその誓約を一字一句違えてはならないからだ。マルクは慎重に口を開いた。
「我誓う。我が名、マルク=レヴィス=グラムソーティスに賭け、我はこれなる兵と砦とを我が力能う限り庇護す。我、砦に仇為す者を敵とす。誓約交わしたる者これなる砦にある間、我約を違えじ。」
マルクは目を静かに城代に据えて淀みなく宣誓した。慎重に選んだ言葉だった。意味を正確に汲み取った者がいるかどうか、マルクはゆっくりと辺りを眺めた。ダハルはにんまりとしていた。策略が上手くいったと思ったのだろう。兵士の中には目立った動きを見せる者はいない。ただ、侍従のうちの一人が口元を微妙に歪めてマルクを凝視しているのに気が付いた。
 マルクは感づかれないようにその侍従を視界の端で捕らえながら観察した。まるで特徴のない平凡な感じの男だ。もうこちらを見てはいないし、他に変な様子もない。思い過ごしかとマルクは注意を城代の方に向けた。
「して、ソーティス卿には何処をお任せするのがよいか・・・」
「城代。東の城壁をソーティス卿にお願いしてはどうかと思うが。」
城代の言葉にダハルがすぐに応えた。マルクは軽く微笑みつつ口を挟んだ。
「ダハル卿。御深慮痛み入りますが、私は胸壁の守りに付かせてもらいましょう。傭兵だけに砦の玄関口を守らせるのは騎士としてどうかと思いますので。では、早速参るとします。」
マルクはダハルの反論も聞かずに、さっさと城代の前からきびすを返した。
「しかしソーティス卿っ!」
城代の声が後ろから聞こえたが、マルクは一顧だにしなかった。マルクはただの一言も『城代の命に従う』とは誓っていない。

 南南西方向にどっしりと腰を据えるレスギン砦の胸壁は、物見高い傭兵達で鈴なりだった。もちろん、胸壁に兵が配されるのは攻撃に備えてのことだが、鎧に身を固め武装した荒くれ者達はまるで祭りの行列でも見物するように敵の軍勢を指してあれこれ言い合った。マルクが胸壁に上がったときには見晴らしの良い場所はすでに占領されていて、敵の軍勢はまるで見えなかった。そこそこ上背のあるマルクだが、体格の良い傭兵達の人だかりに入ると前に進むのも難渋した。
「おおいっ!マルク!こっちへ来いよ!」
頭の上から声がかかった。見張り塔の上からがなり立てているのはパーボだった。
「やぁ!そこは見晴らしが良さそうですね!」
「てめえらっ!騎士殿に道を空けてさしあげろっ!ほれ、どけつ!」
パーボのかけ声でマルクは何とか塔に近づいた。
 塔の上からだと敵の陣容がよく見渡せた。五つほどに別れた敵の兵力はそれぞれ二千ほど。総数で一万を超えるかと言うところだが、今もまた西の森から一軍が合流しようとしていた。
「それじゃぁ、結局胸壁で戦うのか。何も好き好んで危険な場所へ来るこたねぇのによぉ。」
パーボはぼやいた。そういうパーボ自身の傭兵隊も当面は胸壁の守りに当たるらしい。胸壁の守備兵は三隊で三百人強といったところだ。他の傭兵隊長二人も見張り塔の上で見物を決め込んでいた。一人は中年で禿頭のラタール人でモランと名乗った。あまり締まった体つきはしていなかったが、表情はしたたかそうだった。もう一人は二十代後半と見える人の良さそうなイーリス人でアンセル=ジュローと名乗った。挙措端正な様子からし騎士階級以上の生まれであることは間違いない。騎士や貴族が傭兵隊長に鞍替えすることは珍しいことではない。その理由も経済的なものから退屈しのぎまで様々だったが、一様にして言えるのはこの手の人間には有能なものが多いということだった。無能な傭兵隊長は淘汰される。敵に殺されるか、さもなければ味方に殺されるか。いずれにしろ家名だけで生きていける世界ではない。
 マルクは3人の傭兵隊長と雑談を交わしながら、銃眼から敵の陣を詳細に観察した。軍旗は数多く揚げられていた。イシャー語の文字が綴られた長葉旗が二流に雄牛をあしらった紋章の軍旗が三流風にたなびき、他の傭兵団のものらしい幾分小振りな旗も無数に見て取れた。傭兵団のものはともかくとして、旗を見る限りは敵の正体はイシャー人とラタール人の同盟軍といった様子である。
「奴ら、仕掛けてこないな。」
パーボも漫然と銃眼の外を眺めていた。
「あの新しい合流軍の旗は・・鷹のようだね。イシャーにラタール、イーリスの軍の次はマイソミアの遊牧民でも現れるのだろうか。」
品のいい顔にあきれた表情を浮かべてアンセルがつぶやいた。マルクは首を振った。
「それはありませんよ。マイソミア人は金で動きません。イーリス人ともそりが合いませんしね。」
「こちらはマイソミア人を嫌っているつもりはないのだがね。」
マルクは愉快そうに口を曲げてアンセルを見た。
「マイソミア人は自分の部族の人間以外は大抵好みません。それに、文化や文明といったものを惰弱だと見なしているんですよ。」
アンセルは口をへの時に曲げて眉を上げた。
「ソロス人もそう思うのかね?」
「ソロス人全体がどうかは知りません。ただ、私個人のとしての見解を言えば、イーリスは概ね好きです。もし機会があればポントゥやロラに遊学したいとさえ思っています。」
「そういってもらえると嬉しいよ。」
アンセルはまるで自分自身が誉められたように笑顔を浮かべた。例えどんな境遇でも故国を思う心は無くならないのだろう。いや、故郷から離れているからこそ募るのが郷愁というものだろうか。
「話がはずんでいるところ申し訳ないがね。ソーティス卿、あんた、この戦は勝てると思うかね?」
モランは干し豆を囓りながら渋い顔で尋ねた。当人の表情が勝てる戦ではないと語っていた。マルクは思案深げな表情でゆっくりと口を開いた。
「やり方次第では、大勝とは言わなくても痛み分けくらいには持ち込めるかもしれません。もっとも・・」
マルクは先を言いかけて口ごもった。城代があれでは望み薄だと続けかかったが、それは口に出しても詮のないことだった。
「もっとも?」
モランはもう一つ干し豆を口に放り込んで先を催促した。他の二人も興味深げに聞いている。
「籠城戦は援軍の見込みさえあれば、彼我の戦力比が二十対一でも防御側には望みがあるものです。駄目と決めてかかるにはまだ早いでしょう。」
パーボは長々と嘆息した。
「籠城戦か。うちの隊は騎兵が主体なのに野戦がねぇんじゃ、くその役にも立たねぇな。」
「そうか、あなたはロンダリア人でしたね。なら傭兵隊も騎兵中心なのは当然ですね。」
「ああ。馬に乗れないような奴はまずうちの隊に入れねぇからな。」
ロンダリア人は、馬の上で生を受け一生を馬の上で終えるとさえ言われる平原の民だ。パーボの一言でマルクは、ちょっとした計画を思いついた。戦略的な目的と気晴らしを等分に含んだ計画を。マルクは真剣に思案しながら更に言葉を続けた。
「暗闇でも馬を駆れるのはどのくらいいます?」
マルクの口調に何か読みとったのか、パーボも真面目に答えた。
「四十二、三だろうな。暗闇で戦闘するとなるとそれ以上はちょいと無理だ。」
「三十人もいれば十分です。・・ふむ。どうです?今夜散歩に出かけませんか。」
パーボは最初怪訝そうに眉を寄せたが、次第に意味を理解して顎を撫でた。
「何か考えてるとは思ったんだが、夜討ちとはなぁ。騎士らしくないぜ?マルク。」
そう言いながらもパーボの顔はにやにやと表情を崩している。
「一騎打ちで名乗りを上げるばかりが騎士だと思われては心外です。それに、本当に散歩に行くだけですよ。ただ、こんな塔からじゃなく、実際に近づいて敵の様子が知りたいだけの事です。」
「へぇ、そうかい。まぁ、俺は理由がどうだろうとかまわねぇ。外の連中を脅かしてやれるんなら、その話乗るぜ。」
パーボがにやにやと笑みを浮かべて頷く横で、静かに話を聞いていたアンセルも興味深げにマルクを見つめた。
「私も同行してはいけないかね。私はこれでも湖岸の貴族同士の内部事情には詳しいつもりだ。敵を見極めるにも連れていって損はないと思うが?」
マルクは微笑んで頷いた。
「分かりました。一緒に来て下さい。」
「おい。」
 モランは目を細めてマルクを睨み付けた。眼光に兵士特有の殺気と凄みがあり、昨日の騎士とは一枚も二枚も格が違った。さすがに現役の傭兵隊長だけのことはある。怪訝な表情を浮かべたマルクは、真っ正面からモランの目を見つめた。
「何か気に障りましたか?」
「胸壁の部隊を二つ引っこ抜いてどうするつもりだ?がら空きになった正面から外の連中が突入するって寸法か?・・おめぇ、敵の密偵じゃねぇのか?」
「おいっ!何を言いやがる!」
パーボがモランに食って掛かろうとしたが、それを押し止めたマルクはゆっくりと顔に失笑を浮かべて頭を掻いた。
「何がおかしい。」
マルクの笑みをどう受け取ったのか、モランは剣の柄に手を掛けた。
「いえ。自分の間抜けさ加減に思わず笑ってしまっただけですよ。つい、都にいるときと同じ要領で事を運んでしまう。まず、簡単に説明させて下さい。」
そう言ってマルクはモランの向かいに座った。
「まず、少なくとも明日の夜明けまで敵の攻撃がないのは間違いのないことです。」
「なぜだ?」
いぶかしげに首を傾げたのはモランだけではなかった。
「先ほど敵に一軍が加わったのは見ましたね。旗の数や種類からしても、敵の規模は三国・七部隊以上です。しかしこれだけの兵力を持ちながらも、この砦の周りに包囲の軍を配置しつつ様子をうかがうように大きな動きを見せません。これは更なる部隊の到着を待っているのか、あるいは、攻撃の首尾がまだ決まっていないのでしょう。先ほどの一軍が荷を解き終わって陣営を築き、攻撃に加われるようになるのはどう急いでも明朝がいいところでしょうしね。」
「だがなぁ、マルク。連中がそんだけのんびりしてる理由が分からねぇ。どうして、とっとと攻め込んで来ねぇんだ。」
パーボは顎髭を掻きながら口を挟んだ。
「敵には兵力がそれなりにあるとは言え、その統制がしっかりととれている感じでもありません。寄り合い所帯にはありがちだと思いますが、主導権がまだはっきりしていないのかも知れません。
 それと、もう一つ考えなくてはいけないのは、敵には攻撃を急がねばならない理由がほとんど無いということです。取り囲んで兵糧責めは端から念頭に置いているでしょうし、長期化しそうなのは分かっているでしょう。これだけの要害です、二三日で落ちるとは思っていないでしょう。万が一我々が打って出れば野戦です。それこそ願ったり叶ったりでしょう。敵が懸念しなくてはいけないのはニカロン男爵の援兵だけですが、それも当面は考えなくても良いでしょう。何しろこの砦から男爵の本領まで優に一週間はかかります。援兵が来るとしても早くて二週間後ですからね。」
マルクの話を聞いていたモランは、鼻で一つ息をしてマルクを睨み付けた。
「おめぇの話は、まぁわかった。だが、おめえが敵に雇われた密偵でない証拠にはならん。」
「まだ言ってるのかよ。いい加減にしねぇと・・・」
「パーボさん、仕方ありませんよ。余所者の騎士がいきなり偵察を提案したら、誰だって疑いを持って当然です。」
そう言ってマルクはモランの方に身を乗り出した。
「モランさん。どうしたら信用していただけますか?」
「・・・・・・・。」
モランは沈黙した。モラン自身、目の前の若造が密偵だとは本気で思っていなかった。もし本気で疑っていたら口には出さない。ただ、胸壁の警備を手薄にして城外に兵を出すのは気に入らなかったし、何よりこの若造が『結果として』密偵が及ぼす以上の被害を与えるのではないか。そんな危惧がモランの心を捕らえていた。
「・・よし。俺も行く。もしお前が尻尾を出せばお前の首はもらうぞ。・・・・パーボの隊は他の隊に胸壁の当直を変わって貰え。胸壁から一兵も抜かない。」
「ありがとうございます。心配要りません。尻尾なんてありませんよ。」
マルクは顔に笑みを戻した。
「まったく、お前も神経質だな。分かったよ。スワイの隊に代わってもらう。あいつには貸しがあるからな。」
パーボは掌をひらひらさせて立ち上がった。
「集合時刻は?」
「日暮れ時に表城門前にしましょう。それと、兵には金属鎧と長柄の武器は持たせないようにして下さい。」
マルクは自身も立ち上がりながら伝えた。
「わかった。準備しておく。」
「吉と出るか凶と出るか、お楽しみだな。え?騎士さんよ。」
アンセルとモランも立ち上がり、下の兵に命令を伝えに言った。マルクは息を吐いて緊張を解いた。
「吉と出るか凶と出るか、か。決まってるさ。僕の運がこれ以上落ちる分けがない。」

レスギンの獅子(10)

「おおいっ!一体何のつもりだてめぇらっ!!」
 準備を済ませたマルクが馬を歩ませながら城門に近づくと、二百名を越える兵がごった返していた。その向こうからはパーボの怒鳴り声が聞こえてきた。マルクは集団から離れて並んでいるアンセルとモランを見つけて側に近づいた。
「アンセルさん、モランさん、この数は一体どうしたんですか。パーボさんの麾下の三十騎だけのはずでは。」
「すまん。ちょっと口を滑らせたら、あっと言う間に知れ渡ってしまって。あっちこっちの隊から抜け出してきたみたいだ。」
アンセルは申しわけの無さそうな様子で頭を下げた。
「呆れたぜ。この砦にいる傭兵は馬鹿ばっかりだ。」
モランは見事な黒馬にまたがって豆をかじっていた。格幅の良い体を革鎧に包み、凝った作りの剣を鞍壷においたその姿はなかなかに決まっていた。
「しかし、こんなに連れてはいけません。四十騎でも隠密行動するには多過ぎるくらいなんですから。」
マルクは当惑した。噂が広がったにしてもこの人数は異常だ。物見遊山に行くのではない。これから行うのは威力偵察なのだ。
「心配要らん。今、パーボが追い返してる。あ、おい!坊主!」
アンセルが止める間もなく、マルクはパーボの方に馬を進ませていた。
「おいっ!てめぇらっ!人の話を聞けっ!ええいっ!」
パーボは続けざまに怒鳴っていたが、傭兵達は一向に聞く様子もなくがやがやと騒いでいた。
「パーボさん。」
「おお!マルク!なんだか知らねぇが、こんなに集まっちまったらしくてな。いま追い返すから・・」
「ちょっと待って下さい。」
もう一度怒鳴り声を上げるために息を吸い込んだパーボをマルクは制止した。
「ん?なんだ?」
「私に話をさせて貰えませんか。せっかく集まってきたんです。ただ追い返してはもったいない。」
パーボは剣の柄頭を指で叩きながら思案顔でマルクを眺めた。この才子は人の前で話すこつは心得ていよう。しかし、傭兵はただの人間と同じではない。若年者はなめられたらおしまい、一目置かれてやっと対等に口が利ける。パーボはにやりと一つ笑ってマルクに道を譲った。
「お手並み拝見と行こう。」

「諸君、注目してくれ。」
城門の前に馬を進めたマルクは、声を荒げるでもなく端然と口を開いた。マルクの声は程良く通り、傭兵達は思いがけない若い声に視線を向けた。
「今夜の威力偵察に必要な人数は四十名だ。この四十名は例外無く騎兵とする。乗馬を持たない者は下がりたまえ。」
傭兵達はがやがやと騒いだ。その多くはマルクが誰か見当も付いていない。
「よう、坊主。一体何の・・・」
「騎馬のない者は下がりたまえ。速やかに!」
マルクはここで初めて声を高めた。傭兵達は驚きながらも興味を引かれたようすで、馬を持たない者達は城門の一団から離れた。騎馬の兵がパーボの部下も含めて六十名近く残った。マルクは表情を変えずに続けた。
「残りの諸君。君らから四十名を選抜する。エウス・ラクラーノ、『名誉の戦旗』が課題だ。」
そう言ってマルクは抜刀し、切っ先を鞍下に下げて左手の手綱を引いた。馬腹を鐙でしっかりと締めるとマルクの栗毛が後ろ足で立ち上がった。そのまま、数呼吸の間停止する。マルクが手綱を緩めると馬は静かに蹄を降ろした。
「片手で手綱を捌き、三呼吸の間乗騎を二足で停止する。抜刀は任意で構わない。」
「そんな曲芸で選ぶのかよ!」
傭兵が一人不服そうな表情で声を上げた。
馬術に自信がなければ辞退しても構わないが。」
マルクは静かに笑みを見せた。相手が言い返す前に言葉を続ける。
「号令とともに始める。まず、必要なだけ相互に距離をとりたまえ。パーボ隊長!」
マルクはパーボを手招きした。
「何をおっぱじめる気だ?マルク。」
怪訝そうに小声で尋ねるパーボに、マルクも囁き返した。
「あなたの麾下の三十名の他に、十名前後使えそうな者を選んで下さい。ああ、それと、あなたの部下でも馬を自在に扱えないのは要りませんよ。」
「ぬかせ。」
ぴしゃりと言ったパーボに、マルクは軽く会釈して見せた。
「では、お願いします。」
マルクは、準備の整った傭兵達に向かって剣を上げた。
「始め。」
軽くマルクの剣が振り下ろされると、傭兵達は一斉に手綱を引いた。嘶きや落馬の音などが辺りに騒然と響き渡った。

 数分後、パーボが選抜した人数はマルクの指示通りの三十八名だった。パーボは落馬した自分の部下二人を叱り飛ばして追い返したので、ロンダリア人の部下の他に十名が選ばれたことになる。マルクはその中に一人の少女が混じっているのを見つけた。鹿毛の軍馬に跨った小柄な赤毛の少女は、睨み付けるような視線でマルクを観察していた。マルクは口元の微笑みを大きくしながら赤毛の少女に馬を寄せていった。
「乗馬には良い夕べですね、お嬢さん。」
「はん、グラム人さえいなけりゃ言うこと無いんだけどね。」
マルクはからかうように笑みを広げた。
「残念だけどそうは行かないんだ。これを言いだしたのは僕でね。何ならお帰りになりますか?お嬢さん。」
「そのお嬢さんってのは止めな!」
「これは失礼を。」
マルクは馬上で丁寧にお辞儀をした。
「では、御婦人のお名前をお伺いする前に、先に名乗らせていただきましょうか。僕はマルク=レヴィス=グラムソーティス。グラムの血は入っていますが、間違いなくソロスの騎士です。信じる信じないは自由ですけどね。」
少女はマルクの芝居気のかかった挨拶に呆れた風で、口を引き結んで答えた。
「あたしはキャル=キャラ。みんな『スズメバチの』キャルって呼ぶ。さぁ、用は済んだかい?あたしは自分の隊長が誰なのか聞かなきゃいけないんだ。馬鹿丁寧な挨拶が済んだら向こうへ行きな!」
キャルはマルクを避けて馬を進めた。マルクは気にする様子もなくキャルの横に馬を並べた。
スズメバチ・・・どうしてだい?何か意味があるんだろ?」
「しつこい奴には一刺しお見舞いするからだよっ!ついてくんなっ!」
「上手いこと言った奴がいるなぁ。なるほど、スズメバチか。」
マルクが感心しながらそれでも横にいるので、少女は短剣を抜いた。
「昨日のお返しを今してやってもいいんだよ!さっさとあっちへ・・・」
「おい、マルク!編成なんだがなぁ!」
キャルの啖呵を遮ってパーボの声が響いた。
「何ですか。パーボさん。」
パーボは、思案顔でマルクに馬を寄せてきた。
「俺はうちの隊の指揮をしなきゃならんから、おまえとアンセルであの十人を動かしてくれんか?連中は予定外だったんでな。」
「ええ。是非・・」
マルクの声をさらに別の声が妨げた。
「アンセルはお前にやるから、その十人とこの坊主は俺によこしな。」
後ろから悠々とやってきたのはモランだった。
「しかしお前とマルクは・・・」
「パーボ。ぐだぐだ抜かすな。騎兵の十騎やそこら寝てても扱える。」
モランが凄みをきかせて言うと、パーボも諦め顔で言った。
「わかったよ。あんたの腕は知ってるからな。それじゃ、マルクはよろしく頼むぜ。」
「待って下さい。」
マルクが静かに口を挟むと、パーボは怪訝そうに、モランは不快そうにマルクに視線を向けた。
「怖じ気付いたか、坊主。」
モランの顔を端然と見つめてマルクは続けた。
「いえ。指揮を私にとらせて欲しいんです。」
「おい、坊主・・」
「経験不足だとおっしゃりたいのはよく分かります。ですが、元々この威力偵察を言い出したのは私ですから、そのぐらいの責任は引き受けたいんです。」
「じゃぁ、なにか?俺の命をお前の責任感に預けろとでも言うのか?」
モランは残忍そうな顔に不信感を丸出しで言った。マルクは冷静にモランに面した。
「あなたが不満を感じたら、その場で指揮を代わりますよ。」
「ふん。・・・まぁいいだろう。なら、さっさと兵をまとめろ。」
モランは顎をしゃくった。
「それではパーボさん、一刻後に裏の馬出しに兵を集めておいて下さい。こちらもちょっと準備をしたらすぐに行きます。」
「ああ。わかった。」
パーボが号令をがなりながら行ってしまうと、マルクはキャルの方に笑みを向けた。
「そういうわけで、隊長を捜す必要はないよ。」
赤毛の少女は、ふん、と鼻を鳴らした。キャルを尻目に、マルクは選に漏れた傭兵達に目を向けた。
「さてと・・・」

 砦の南東側の城壁には楼閣と一体になった馬出しが隠されている。胸壁の一番端に当たるこの楼閣は堅固なつくりで、首塁・門楼に続くこの砦の攻守の拠点である。首塁がほとんど機能していないことから考えてみれば、砦の死命を決するのはこの南東の楼閣の使い方如何と言うことになる。マルクがここの馬出しから出撃を決めたのはそういう意味もあるが、この楼閣が敵陣のある南西の方角から見ると稜線の影にギリギリで隠れることも計算に入っていた。この季節の南ラタールは風が強いものの良天が続く。微かに流れる竜牙海からの雲が、月明かりに照らされた葉の芽吹き始めた木立に静かな影を投げかけていた。その雲に隠れるように、四十騎の騎兵は門から進み出ていった。
 マルクの立てた偵察の計画は簡単な物だった。レスギンの丘の稜線に隠れて胸壁の側に迂回し、胸壁の正面に張り付いている敵を背後から突く。パーボの主力はそのまま敵の先陣を突破して胸壁の正門から帰還する。マルクとモランの別隊は混乱の間隙を縫って敵の本陣に接近し、出来る限り相手の様子を探る。単純そのものの作戦だった。
 マルクはパーボらと細かい部分まで打ち合わせていたが、稜線を下りながらモランは何度かマルクを問いただした。
「正面の兵数がお前の予想通りとは限らん。いや、予想通りだったとしても、パーボの隊が敵を蹴散らすのに手間取れば?」
「その時は、私の首を差し上げますよ。」
マルクが笑いながら答えるのに苛つきながら、モランは続けた。
「そういうことを言ってるんじゃねぇ。その時どうするのかってんだ、坊主。」
「私たちの隊が待機するのは胸壁前の敵が布陣している場所の東です。パーボさんの本隊は南から仕掛けます。もし本隊が上手く突破できれば我々は後退する敵を密かに追走しますし、もし駄目なら我々も突撃をかけます。この場合、偵察は失敗ですが。」
モランは変わらぬ不機嫌な顔でマルクをじろじろと見た。確かに、簡素でそつのない作戦ではあるが、そう考え通りに上手く行くだろうか。机上の名将が戦場で敗れるのを何度も見てきている。モランはマルクにも同じ危うさを感じていた。
「パーボがドジを踏みやがったら、俺に指揮を代われ。いいな。」
モランがマルクを凝視しながら言うと、マルクは平然と答えた。
「実を言うと、最初からそのつもりです。騎兵突撃なんて自分で指揮しても上手くやれるかどうか。あまり自信ありません。」
正直さに呆れたものだか感心したものだか分からずに、モランは溜息をついた。坂道を下るモランの黒馬も、つられるように鼻から溜息を漏らした。