レスギンの獅子(8)

 夜半過ぎの客室からの眺めには、四方の木々の影の中にあまたの篝火が見えた。マルクはその篝火の数を概算した。兵の数は三千を下らないだろう。おそらくは四千を超える兵がいると考えて間違いない。敵の正体は判然としていなかったが、これだけの兵を派遣するとなると単独の軍隊ではラタールの二伯爵家かグロクスティア帝国くらいしか考えられない。敵の正体がなんであれ、この軍隊の攻撃の対象がレスギン砦であることだけは間違いなかった。マルクにとって重要なことは、彼とラドビクがソロスに帰るどころか砦から出ることも危ういことだった。
 門を出てすぐに矢の的にされたあと、マルクはラドビクを連れて砦に引き返した。パーボとクラースは隊の傭兵を集めて撃って出ることも考えたようだが、それはマルクが押し止めた。強行偵察は敵の概要が分からないうちに行うものではない。ましてやこの砦の兵数は決して多いとは言えない。篭城戦になるであろうことを考えれば無駄な出血は避けるべきだった。
 ラドビクが手当されて元の客室へと運ばれると、マルクは城代のところへと赴いた。ラドビクを置いてはいけない以上、もう一度城代に会って話をつけなければならない。先の会見の様子からすればダハル卿のごり押しで砦の外に放り出されかねないし、出来ればこの砦の兵数や糧食の備蓄を正確に把握しておきたかった。城代の執務室にいきなりマルクが入ると、城代は突然の闖入者に驚いた。
「城代殿、事情は伺っていることと思います。我が従者が手傷を負いまして、申し訳ないが彼が動けるようになるまで逗留を続けさせていただきたい。」
城代は渋い顔をしてマルクを見た。
「従者は動かせないのかね。なるべくなら、早々に立ち去っていただけるとありがたいのだが。」
「残念ですが。肩口を射抜かれましてね。おそらく数日は身動きもなりますまい。」
「では致し方ないでしょうな。ただし条件がある。」
「条件?」
マルクは怪訝そうに眉を上げた。選択の余地はほとんど無い以上、この際どんな条件でもマルクは呑むしかない。
「出来ればあなたと従者は部屋から出ないで貰いたい。」
城代の考えは納得がいった。これ以上やっかい事を引き起こされては叶わないと言うのだろう。マルクは軽く肩をすくめた。
「構いませんよ。どうせ篭城戦が始まってしまえば私たちは用無しですからね。」
「は?篭城戦だと?」
城代は顔色を変えた。
「盗賊か何かではないのか。あなた達を襲ったのは。」
「盗賊は武装した騎士を襲ったりしないものですし、射手を二十人も用意しないものです。何処のものだかは知りませんが、間違いなく軍隊ですよ。」
城代は信じられないと言った愕然とした表情をしていた。目は落ちつかなく動き、マルクの表情に冗談の欠片でも探そうとしたのか幾度かマルクの顔を眺め、何か言いたそうに口をパクパクと開いては閉じた。マルクはお構いなしに尋ねた。
「この砦の兵数はどれくらいですか。」
「兵数?・・・ああ、傭兵が600くらいで男爵の兵が100に足らない程度だ。」
マルクは頭の中で計算した。防衛に必要な数は揃っている。だが、野戦で勝負できるだけの数はいない。
「なるほど。大体予想通りですね。篭城するのが上策でしょう。それで、食糧はどれくらい持ちますか。」
城代は呆然としてなんとか続けて答えようとした。
「食糧は・・・調べさせてみないと・・・」
「早めになさるとよろしい。充分に食糧がなければ敵よりも飢えと闘う方がきつくなるでしょう。」
城代はこくんこくんと何度も頷いた。
「それでは、従者の様子が心配なので失礼させていただきます。約束を守って客室から一歩も出ませんよ。では。」
マルクは自失の呈の城代を部屋に残して客室へと戻った。城代があの調子では、篭城戦はかなり厳しいものとなるだろう。だが、それはマルクの関わることではない。マルクにとっての気がかりはラドビクの負傷の程度であり、この砦をいかにして安全に抜け出すかであった。

 客間に帰ると隣室でラドビクは傷の手当も済んで寝ていた。傭兵隊のものが肩の傷を手当してくれて矢はもう抜けていたが、かなり強い薬で眠らされたにも関わらずひどくうなされていた。マルクが額に手を当ててみると熱がかなり高かった。肩を射抜いた矢が衝撃で鎖骨を折ったのだろう。傷口の痛みと骨折による発熱は命を奪うことはないが体力を消耗させる。ラドビクが動けるようになるのに少なくとも一週間近くかかるだろう。完治するまでだと篭城戦が終わりかねない。城代が決して有能とは言えない以上、落城は遅いか早いかの問題でしかない。篭城戦は突き詰めて言うと統率者の精神力次第だと言っていい。ラドビク自身の安全のためにも、ここはラドビクの体力と若さが予想を裏切ることを祈るしかない。マルクはラドビクの額の汗を手拭いで丁寧にふき取った。
 ラドビクのうなり声のせいもあってマルクは寝付けなかった。窓から見える砦の外は正体の知れない敵の篝火で満ちていたし、砦の中にも別の敵がいる。神経質なわけではなかったが、マルクの張りつめた緊張は容易にほぐれなかった。夜半を回る頃マルクはやっと夢うつつの微睡みに落ちかけたが、静かにドアを叩く音がその安息の前触れを破った。
「マルク、起きているか?」
その声はまだ一日も経たないうちに聞き覚えのあるものとなっていた。傭兵隊長・パーボだった。マルクは毛布をまくって半身を起こすと、怪訝そうに顔をしかめた。今時分に何の用だろうか。
「起きています。今扉を開けます。」
「こんな時間に邪魔してすまんな。」
そう言うとパーボは部屋に入ってきた。まだ暖かい部屋に一瞬肌寒い空気が入ってきてマルクの肌を冷ややかに撫でた。マルクが扉を閉めて椅子を勧めると、パーボはどっかりと椅子にまたがった。椅子の背を抱いて座ったパーボは金属の鎧に身を包み込んだ武装姿だった。
「何かあったんですか?」
暖炉の消えかかった火種を起こしながらマルクは尋ねた。パーボの顔を見ると至って真剣な表情だ。
「マルク、実はある話をちょっとばかり小耳にはさんだ。お前さんに関わりのあることだ、と思う。」
パーボの歯切れの良くない台詞に興味を引かれて、マルクも上っ張りを一枚羽織ると向かいの椅子に座った。
「さっき、うちの隊の当直の連中を見回りに行こうとした時なんだが、中庭でダハルの声が聞こえてな。気になって声のした方でへ行ってみたんだ。そしたら、館の楼台でダハルが誰かと話していた。全部聞き取れたわけじゃないが、お前の名前と『戦履召喚』とか言う言葉が聞こえた。お前、意味分かるか?」
「『戦履召喚』・・・ああ、そうか。リゲッシュ・・・・『戦時誓約履行による騎士の召喚』の事か。」
マルクは今ではあまり使われない古エディアの騎士典範の一節を思い出した。
「なんだそりゃ?どういう意味なんだ。」
今に至るまで各国の騎士によって連綿と受け継がれているとは言え、『騎士典範』はマルクにとって記憶の片隅に残っているに過ぎない。記憶を掘り起こしながらどう説明したものかマルクは考えた。
「あー、ソロス語の『リゲッシュ』は・・・『名誉ある参戦の依頼』とでも言えばいいんでしょうか。手っ取り早く言うと、不正義に苦しめられている権威者は使命を帯びていない騎士を召喚することが出来るって決まりですよ。正しくは、騎士は正義と名誉のための依頼を断ってはならない、って事なんですけどね。」
「それがお前とどう関係があるんだろう。」
マルクは椅子に深く座りなおして思案した。
「この砦はある意味、『不正義に』苦しめられている事にもなります。なにしろ、丘の下には得体の知れない軍隊が攻撃の準備をしているわけですからね。となると、城代がいわゆる『戦履召喚』を周囲の騎士に布告すれば、止む終えない事情がない限り布告を聞いた騎士はその依頼を断りきれないわけですよ。」
「それで?」
「城代が布告してそれを知らしめられる範囲にいる騎士はたった一人、私だけでしょうね。なにせこんな辺境ですから。」
「ははーん。分かった。連中はお前さんを城の守備に駆り出そうってわけだ。その上で・・・」
「そうでしょうね。『戦場では矢は前からしか飛んでこないとは限らない』でしょうから。」
マルクの台詞にパーボは大きく頷いた。
「連中の考えそうなことだ。だが、お前さんに『止む終えない事情』って奴があればいいんだろ。」
マルクは嘆息して答えた。
「残念ながらいいのを思いつきそうにありませんよ。それに理由が何であれ、断ったらそれを理由に密偵の嫌疑を掛けられかねません。いや、きっとそうするでしょうね。」
パーボは鼻を鳴らした。至極面白く無さそうな顔つきだ。
「奴等に上手くはめられたって事か。なんとかならねぇかなぁ。」
「城代が布告を出せばの話ですからね。布告が出なければ問題ありません。城代は部屋から出ないことを条件としてこの砦に私が逗留する事を認めたんです。城代もこれ以上の騒動は好まないでしょうから、布告は出さないでしょう。」
「いや、城代に期待するな。あいつはダハルの言いなりさ。」
「それはまたどうして。城代の方が役回りは上でしょうに。」
「あいつは元々商人上がりでな。ニカロン男爵の金勘定をしてたのさ。だから計数には多少明るいがてんで腰が引けてる。ダハルは男爵の従兄弟だから無視もできねぇのさ。」
マルクは何度か頷いた。騎士階級の出ならば少なくとも狼狽を人に見せるのはよしとしない。胆力に欠ける城代は、ダハルに恫喝されれば言いなりになるしかないのだろう。
「そうですか。なら私は逃げようがないわけですね。今夜中に砦から逃げ出せば心配もしなくていいのでしょうが、ラドビクを置いて行くわけにもいきません。」
「だがおめぇ、それじゃ闇討ちされるのは目に見えてるぜ」
「何とかなりますよ。ともかく、知らせていただいただけでも感謝しなくては。」
マルクは微笑んで答えた。
「ふぅ。わかった。とにかく気をつけろよ。お前が後ろからばっさりやられたひにゃ、こっちの夢見が悪いからな。」
パーボはそう言って立ち上がった。去り際、一度立ち止まったパーボはマルクの肩を二度軽く叩いて出ていった。今日知り合ったばかりなのにパーボは何度もマルクに好意を見せてくれた。いずれ彼の好意に応えよう。マルクは心にそう刻み込んだ。
 寝台に潜り込んでからもマルクの頭脳は静かに思考を続けていた。パーボには言わなかったが腑に落ちない点が一つだけあった。ダハルとその一党に騎士典範をそらんじるほど記憶しているものがいるとは思えない。ならば、この巧妙な心理と法規の罠を仕組んだのは誰だろうか。それを類推するにはまだ欠けている部分が多すぎた。ともかく、ダハルの後ろには誰かがいる。そして、そいつはマルクを疎み、消そうとしている。それははっきりしていた。
 城代、そしてダハル。優秀な傭兵。謎の敵。さして複雑ではない配置の裏には、何かの意志が働いている。その意図するところは何か。マルクの思考の糸は蛇行しながら迷宮の中をさまよい、そのまま微睡みの中へと消えていった。