レスギンの獅子(4)

 公女の申し出を断ってからしばらくのあいだ、ラドビクは事ある毎にマルクに喰ってかかり、一日中マルクに聞こえるように愚痴った。彼曰く、世の中には礼を知らない騎士がいるだの、心のない石ころが自分の主査正騎士だなんて不公平だの、とにかくこの世の不正の半分はマルクに責任があるらしかった。本来ならば騎士と従者の階級は絶対であり、軽口一つで文字通り首が飛ぶことさえある。だが、マルクとラドビクの間の主従関係はいわゆる奉仕と保護の関係ではない。ラドビクもあと二年か三年で騎士位を得、後にはマルクよりも責任のある地位につかねばならない。これは貴族社会の教育制度なのだ。そういった意味で、所詮にわか騎士のマルクが歴とした貴族の嫡出子であるラドビクを罰するなどまるで現実的でない。何より、あの判断が自分のわがままを通した結果であることは他ならぬ彼自身がよく自覚していたので、マルクはラドビクを軽くたしなめただけだった。
 彼がイーリス行きの誘いを断った最大の理由は、自分が再び身分違いの恋に悩むのではないかという、多分に憶病な理由からだった。ただの数刻言葉を交わしただけで、マルクはかの公女に好意を抱いていた。美貌もさることながら、教養と知性兼ね備え、貴族にありがちな奢りもない。かつて、いや今でもなお、彼が思いを寄せる女性とは個性がまるで違うとはいえ、二人の女性はどことなく似ていると感じられた。それはおそらく、マルク自身がやもすると失いがちな確固とした意志と信念の輝きを、二人の女性に見たからだろう。いずれにしろ、イーリスに滞在するどころか青銅海を渡る船旅の間に、彼は煩悶の深みにはまっていたに違いない。トラヴィスを出立してからの数日、ソロスの王女とポントゥの公女の面影が幾度となく心にちらつき、マルクは孤独のもたらす平安と苦しみを反復した。
 沈鬱な騎士とすねた従者は、ラタールの古都を出立してマイソミア街道を南へと辿った。二月のラタールを吹き抜ける風は冷たく乾燥しており、かりそめの主従のどちらからも公平に体温と活力を奪った。ラタール人は山一つ向こうのロカールの住人と同様、余所者に優しいとは言えない。マルクはなんとか騎士としての最低限の威厳を保っていたから辛うじて宿には困らなかったものの、情勢に関しての情報は期待していた半分も聞き出せなかった。結局ラタールを縦断して分かったのは、住民達が例外無くグロクスティア人を嫌っていることと、この一帯で羽振りが良いのはニカロン男爵ただ一人であることぐらいだった。
 ニカロン男爵の評判はまちまちだった。宿場の客引きなどは街道が寂れる一方だとこぼしたが、街道を外れた村落に泊まったときなどはマルク達の手前もはばからずに、外国人を閉め出した男爵の壮挙に祝杯さえ上がった。いずれにしろ、人々の口に上るのはただ一つ、レスギンの不落の砦とその財宝のことだった。マルクの心はゆっくりと固まっていった。東から吹いてくるイーリスの文明の薫りに触れ損なったのだ、この際、その砦とやらくらいは見ていってやろう。ラタールの旅路が終わろうとする頃、マルクは決心した。
「ラドビク。」
「なんですか、鉄の騎士殿。」
この子爵の息子は二週間を経過して暦が春に変わろうと言う時期になってもまだ、一途に怒りを持続していた。表面だけでも自分を押さえられるようになれば、将来は忠臣として大成できるかも知れない。今のマルクはむしろ、彼の口が災いして惨めに落ちぶれる方に賭けてやりたい気分だったが。
「いつまで騎士を愚弄する気だ。君の父上は君の頭に何を詰め込んでくれたんだ?」
「マルクさん、幾らあなたでも父の悪口は・・・」
「ソーティス卿、だ。父上が君の頭に礼儀でさえも叩き込んでくれなかったようなら、そんな頭は必要ないな、従者よ。」
マルクに彼をいたぶるつもりはない。ただ、まがりなりにも他国人の騎士の前に出ることになるのである。ラドビクにもマルク自身にも、緊張感を取り戻す必要がある。
「し、失礼しました、ソーティス卿。」
ラドビクは蒼くなって答えた。口元がひきつっている。
「自分を取り戻せたようで大いに結構だ。それでは一仕事して貰おう。」
「は。なんなりと。」
「約半日先で街道は二つに分かれる。その近くにニカロン男爵殿の所有される砦がある。わたしはそこを訪問するつもりだ。君に先触れをして貰おう。」
「かしこまりました。」
マルクはわざと冷たくつけ加えた。
「陛下とソロスの名を汚すような真似はしないと信じている。」
ラドビクは転げんばかりに馬をせき立てて駆けていった。その姿が木立に隠れて見えなくなると、やっと溜息を吐いた。こういうやり方は公平とは言えないが、時として必要だ。辺境の砦ともなれば士卒だけでなく騎士とても気が荒い。マルクはレスギン砦で街道筋の情報を仕入れておこうと考えていたが、若造と侮られてはそれどころか関所の通過さえ危うくなる。マルクは鞍袋から鎧を取り出し手早く身につけた。レスギン砦に二三日泊まる間この役を続けるのだから、今のうちから調子を取り戻して置かなくてはならない。

 砦という言葉の定義がこれほどに拡大されることもあるのだと、マルクは思った。レスギン砦は辺境の砦などという生やさしいものではなく、山一つが要塞になっていると言って良かった。マルクが今まで見た最大の城郭はロカールにあるルクソール峠のものだが、それとても攻め難さでこの砦には及ばない。マルクは頭の中で簡単に計算したが、攻撃側は防御側の二十倍は兵力を必要とするはずだ。例え守将がどうしようもない間抜けでも、兵士が千人もいれば食糧の続く限り守り通せるだろう。
 砦の構造を感嘆の目で眺めながらマルクが街道を進んでいくと、彼の到着を数人の兵士が待っていた。騎士こそ出迎えに出て来なかったが、ラドビクはなかなかに上手くやったようだ。街道から見て正面にある補塁に入ると、すぐに城代の前に通されることになった。
 城代は四十過ぎの痩せた小男だった。近衛の青衣とその下の銀一色の鎧で威儀を正したマルクを見る目は、猜疑と不安で落ちつかなかった。
「ソーティス卿とか申したな。ソロスの近衛騎士が何のようだ。」
ジェレッスン=バウ=ミディオンとか言うこの男は、小心者のくせに虚勢も一人前に張れないらしい。
「マルク=レヴィス=グラムソーティスと申します。良い城ですなぁ。ここは。」
相手の不安も何処吹く風でマルクはにこやかに答えた。マルクは目の前の城代を見もせずに窓の鎧戸を開けて、首塁の偉容を見上げてしきりに感嘆の声を上げた。
「何の用かと聞いているのだっ!」
予想よりも怒鳴るのが早すぎて、マルクは驚いた。この程度の人物で城代が勤まるとは、南ロカールはよほど平和なのか。もう少しからかってやりたかったが、わざわざ喧嘩を売りに来たわけではない。最初は威圧的なソロスの騎士を演じるつもりだったが、ここは警戒されるよりもむしろバカだと思わせて侮られた方が動きやすいだろう。
「こ、これは失礼を。私めは、わが国の宰相殿下の命を受けラタールに参った次第で。」「その命とは。はよう申せっ。」
「は。その命というのは、このレスギン砦の視察でございまして。宰相殿下曰く、『ラタールには天下に名だたる城が多く、レスギンの城郭はその最たるものだ』と仰せられまして。かような次第でまかり越した次第にございます。城代殿にもよしなにとのことでございました。」
「ふん。ソロスにはろくな城がないと聞くから、当然と言えば当然だな。」
マルクは心中ほくそえんだ。易々と引っかかってくれた。あと一押しだ。
「さようですな。宰相殿下がご覧になれば、かほどの要害がわが国にもあればと御感嘆あそばすでしょう。」
「そうだろうな。まぁよい、心ゆくまで見て行け。わしは忙しいから誰ぞ捕まえて案内して貰え。」
城代はそれだけ言うと、小うるさそうにマルクを追い払うしぐさをした。
「お許しいただき感謝の至りにございます。」
マルクは城代の前から下がった。挨拶も済ましたしこの城塞をうろつき回る許可も得た。これでもう、別れの挨拶までこの小男に会わなくて済むだろう。