レスギンの獅子(3)

 密使はマルクと幾分も年齢の違わない、若い女性だった。マルク自身も勅使などと言う堅苦しい役目が似合うとは思えなかったが、ルミエラ=フィエスガリアンテと名乗ったこの美しい女性ほど密使と言う無粋な言葉が似合わない人はいなかった。姓名を聞いて、マルクは風説を思い出した。ポントゥには誇りが二つある。一つは地上でもっとも美しい白亜の街並み。もう一つは、麗しの公女パラ=ロノ。
 パラ=ロノとはイーリス語で『至上の方』という意味だ。ソロス語で言うと『ミエス・シュア』となるこの言葉は、皇帝や国王の第一夫人にしか使われない尊称だ。公女の姿を垣間みたある詩人がその麗しく気高い姿を詩って思わず使ったのがはじまりとなって、いまや青銅海一帯ではポントゥ大公の公女その人だけを指す言葉となっているらしい。パラ=ロノに求婚する者は後を絶たず、その誰一人として彼女の肯定を得られた者はいないという。
 密書を静かに読み進むポントゥ大公の公女を観察しながら、マルクは心の中でうなずいた。艶やかではなく穏やかな美貌は、もし叶うならその笑みを独占したいと世の男達に思わせるに違いない。マルクもまた一人の男子として彼女に心を奪われてもおかしくはなかったが、彼は自分自身をいさめた。例え決して叶わない望みと知っていても、マルクの心は未だにただ一人の女性に囚われたままだった。
「ソーティス卿、お加減でも悪いのですか。」
ルミエラがそう尋ねるまで、マルクは自分が黙想にふけっていたことに気がつかなかった。彼らしくもないことだった。
「いえ、失礼いたしました。お噂には聞いていたのですが、誠に麗しきご様子にて、我を忘れておりました。流説が真実を伝えた試しは、一度とて無いようです。」
「お上手ですわね。」
彼女は鈴のような声で、くすくすと笑った。朗らかなその様子には、一片の嘘も感じられない。
「さて、書状は確かにお預かりいたしました。父も宰相閣下からのお申し出には、熟慮の上回答差し上げることと思います。」
「はい。よろしくご検討下さい。」
黒衣の宰相の申し出が何であるかはマルクの預かり知るところではなかったが、ともあれ肩の荷を降ろすことは出来た。
「ところで、ソーティス卿。すぐにソロスへとご帰還なさるのですか。」
「ええ。その心積もりです。」
ソーリアに帰り着くことを思うとマルクの心は躍った。今から帰路に着けば、潮風に甘い花の薫りが漂いはじめる頃には戻れるだろう。しかし、そんなマルクの郷愁を哀れむように、麗しき人は続けた。
「それでは、一つお耳に入れておかなければならないことがございます。」
「は。なんでしょうか。」
「今朝入った情報なのですが、オスカ峠が通行できなくなったとのことです。」
「なんですって!?」
あまりのことに大きなを上げて、マルクは席から立ち上がりかけた。オスカ峠はロカール街道最大の要衝である。大グラム山脈を抜ける峠は幾つかあるが、軍旅の移動に耐えられる街道として十分に整備されている峠は他にない。この街道を生命線と考えているソーリア王国が自ら峠を閉ざすことはあり得ない。だとすれば・・・。
「グロクスティアが。」
「そのようです。帝国の軍団が、峠の麓で陣営を布いているという情報があります。私の推測ですが、おそらくはマルミナスの方でも同様の動きが起こっているかと思います。ルクソールもエルヴァも通れないと見て良いと思います。」
申し訳なさそうに続けるルミエラの様子に、マルクも腰を下ろした。この人は自らの咎でもあるまいに、まるで他人の他国の騎士に心を砕いている。そして、マルクとほぼ同様の推測を導き出した明晰な知性と教養。的確なな情勢の判断がそのまま地理に結びついている。この公女は、ただ麗しいだけの人ではない。マルクは、我知らず先を尋ねていた。
「狙いは何処でしょう。ロカールか、それともラタールか。」
「そのどちらだとしても、峠の封鎖は理にかなっていますね。七星の王冠をいただく御方にとって、もっとも気にかけるべきは西方の獅子ですから。」
公女は悲しげな様子で答えた。七星の冠を戴くもの、すなわちグロクスティア皇帝。彼の飽くなき覇業こそがラタールの今日の有り様を作り出している。それはそのままイーリスの明日の姿につながるだろう。それが分かっているからといって、彼女に何が出来ようか。情勢を見る目が自らに利するとは限らない。ただ心痛を増やすだけのこともある。立場の違いはあっても、マルクには彼女の心情が少なからず理解できた。
「帝国の動向はともかくとして、ソーティス卿。いずれにしろあなた方はすぐに御帰国にはなれないでしょう。」
マルクは嘆息した。彼女はあくまで正しい。
「どうもそのようですね。北のグロクスティアが通れないとなると、マイソミアを回っていくしかありません。ソーリアに着く頃には、春を過ぎているでしょう。」
ソロスの春は美しい。今年は王宮広場の咲き誇るサクラが見れないかと思うと、マルクは切なくなった。
「ソーティス卿。」
「はい。」
ルミエラは気遣わしげにマルクを見た。
「もしよろしければ、私どもとともに、ポントゥにいらっしゃいませんか。ラタール南部やマイソミアも安定しているとは言えません。それに、マイソミア砂漠は大変な難路だと聞いています。失礼ですけれど、お二人は・・・。」
「若すぎますか?」
マルクは微笑んで答えた。
「侮辱するつもりはありませんの。ただ、すでに天険を越えられてお疲れかと思いますし、情勢が落ちつくまでしばらく様子を見られてはいかがかと。一緒に来ていただければ、こちらも遠来のお客様をおもてなし出来ます。父も喜ぶかと。」
「はあ。」
生返事をしてマルクは黙考した。確かに、急いで帰国する必要があるわけではない。マイソミアを何度か横断したこともあるので、彼一人ならば砂漠はさしたる問題でもないが、今回は預かりものの同行者がいる。何よりも、この才色兼備の公女ともっと言葉を交わしてみたかったし、文明の地イーリスでの滞在はあまりにも魅力的だ。
「マルクさん、何を黙っているんですか。少しは訳して下さいよ。」
ラドビクが横で囁いた。彼は、イーリス語をきちんと理解できない。道中マルクが教えたのでラタール語はそこそこ通じるるのだが、構文が非常に良く似ているこの二つの言語は実用では別物だ。マルクはルミエラに一礼してから、ソロス語でラドビクに事情を説明した。貴人の前で内緒話をするようなものだから本来なら失礼に当たる。だが、彼女がソロス語の教育も受けていることは間違いない。
「従者の方にも関係のあるお話ですから、ソロス語の方がよろしかったようですね。」
彼が説明を終えたあとにルミエラが見せた苦笑を見て、マルクはこの公女に心惹かれている自分を正直に認めた。
「マルクさん。せっかくのお誘いですよ。お受けしなくては失礼です。」
ラトビクは頬を赤らめながら囁いた。公女を見ては赤くなって俯くラドビクを見て、揺れていたマルクの心が決まった。
「公女殿下、失礼は承知の上ですが辞退させていただきます。どうかお許し下さい。」
彼はラドビクにも分かるよう、わざとソロス語で言った。ラドビクは、公女がいなければ今にも喰ってかかって来そうな様子だ。
「そうですか。残念ですわ。」
公女の親切心を無にするのは辛かった。もうこんな機会は決してないだろうと思うと、胸の端で後悔がうずいた。
「我々も国王陛下に仕える者の端くれです。国が危機に陥る可能性がある以上、我が身の事ばかり考えているわけにもまいりません。情報を集めながら南回りで帰国します。」
「そうですわね。では、せめて路銀と馬だけでもお受け取りになって下さい。あって困るものでもありませんわ。」
ルミエラはうなずいて、心配そうに尋ねた。
「ありがたく頂戴いたします。ご配慮、感謝いたします。」
マルクはラドビクを従えて、公女の前を辞した。