レスギンの獅子(5)

 家令はマルクとラドビクに続きの客間をあてがった。二人は荷物を運び入れて貰うと、普段着に戻って早速砦の中を見て回ることにした。もっともラドビクは、数刻を経ないうちにたちまち飽きてしまった。
「ラドビク、この砦を守備するとしたら兵が何人必要だと思う。」
補塁同士を繋ぐ城壁の上を歩きながらマルクは尋ねた。ラドビクは気のない様子で答えた。目は中腹の練兵場で訓練している傭兵隊の方に向いていた。
「城郭が広いですからねぇ・・・二三千は要るんじゃないでしょうか。」
マルクは眉をひそめた。
「そんなに兵を持ち込んだら、兵士の干物の山が出来上がるぞ。君も三千人の兵士も、一週間もすれば馬を殺して喰うことになるな。」
「ソーティス卿。あなたと違ってわたしは学院で学んだわけではないので、こういう事には疎いんです。」
「ならいい機会だ、防衛戦の基本となるのは食糧だ。まず食糧のことを第一に考える。覚えておくんだ。」
マルクとて、実際に戦場で指揮したことがあるわけではないが、彼が今でも学んでいるソーリアの王立学院は戦術指揮を必須科目にしており、史学や地理と並んでマルクの得意科目の一つだ。実地で上手く講義どうりに事が運ぶとは限らないが。マルクは続けた。
「この辺りの地勢を見れば、辺りに耕地が少ないことは分かるだろう。僻地だから当然だとはいえ、ここの食糧のほとんどはもっと北から運んでいることになるな。そうすると、防衛戦は必要最低限の人数に多少余裕を持たせる程度でやらざるおえない。」
「で、その人数は。」
ラドビクは馬鹿ではないが気が短い。
「補塁に三十人ずつ。もっとも、一番北の補塁はなくても構わないので省くとして百二十人。胸壁と三つの城壁に各五十人で二百人。予備や損失を頭に入れて五百人いれば一ヶ月は軽いだろうな。」
「五百人で?そんなまさか。」
ラドビクは疑いの目を向けた。兵士五百人といえばソロスの騎士団一つにも足らない。
「いや、これでも場合によっては多すぎると思う。食糧の備蓄の少ない時期、そうだな、ちょうど今頃だと五百人でも二週間補給がないと満足に食事が行き渡らないはずだ。それにこれだけの要害だと、あまり人数が多くても有効な使いようがないのさ。」
「そんなもんですか。まぁ、わたしもソーティス卿もただの客ですから、食事の心配は要らないでしょう。」
ラドビクは関心無さそうに首をすくめると、再び傭兵の練兵に目を戻した。
「ソーティス卿。まだ城の中を見て回りますか?」
「退屈そうだな。君は彼らの訓練でも見せて貰うといい。わたしは首塁までいってみる。まだ見たいものがあるから。」
マルクが丘の頂を見上げながら言うと、ラドビクは嬉しそうに表情を崩した。
「では、お言葉に甘えまして。夕食前には戻って下さいね。」
ラドビクが城壁を嬉しそうに降りていくのを見てから、マルクは次の補塁を目指して歩き始めた。

 砦の本体であるはずの首塁は、二つの櫓と堅牢そうな館があるだけの簡素なものだった。その何処にも今は誰もおらず、どうやら通常時は使われていないようだった。何カ所か崩れている場所もあり、保守はあまり行き届いているとは言えない。もっとも、この頂上の首塁を防衛に使うようならばすでに勝敗は定まっているだろうから、この首塁自体無くても構わないのだろうが、城代の怠慢が見えるようでマルクは気に入らなかった。おそらくは城主の城館として使われていたのだろうが、現在は胸壁を見下ろす丘の中腹にかなり新しい城館が立っている。傭兵達の兵舎もそこにある。確かに館がここでは不便だろう。ともあれ、マルクはお目当ての櫓に上ってみた。
 頂上から見る砦の構造は、設計者の意図がはっきりと現れたものだった。砦全体はこの小高い丘の上三分の一程度を覆う形になっているが、丘は北側から東側にかけて勾配のかなり急な崖になっているため、一番外側の城壁の形は上から見るとてっぺんが平たくへこんだ半円のように見える。南西に向いた半円のへこんだ部分が胸壁で、もっとも城壁が高く攻城兵器にも耐えられる構造をしている。あとの部分は高さもさほどではなく、作りもさほど頑丈ではないようだ。ただ、胸壁のある部分以外は城壁の外が勾配のきつい坂になっており起伏も激しい。物見塔も適所にあり、結局のところこの城を攻める軍隊は翼でもない限り正面の胸壁に攻撃を仕掛けるしか無くなるだろう。これがこの砦の設計者の狙いだ。防御側は見張りさえ充分に置けば、数隊を他の城壁への奇襲時に備えて置くだけで胸壁での戦闘に専念できる。胸壁自体も正面がなだらかに開けた坂なので、大型の攻城兵器で攻められることは考えにくいし、奇襲されることもまず無い。もっともこの砦に全く欠点がないわけではなく、胸壁のすぐ後ろ側にそびえる半木造の城館と兵舎は、城壁の外から火矢の届く範囲にあった。防御構造の中で徹底していないのはここだけだった。
 数刻マルクが城郭を眺めて出した結論は、自分ならこの砦を攻める側には回りたくないということだった。包囲陣を敷いて飢えを待つか、何らかの政治手段で切り崩しを謀るならともかく、正面切っての攻城戦は徒に死傷者を増やす愚行に過ぎない。いや、そもそも戦争こそがある意味度し難い愚行なのだから、どんな手段を用いようと愚行には違いないのだろうが。マルクの思索の間に夕日は遥かに見えるマイソミア砂漠の向こうに静かに沈みゆき、レスギン砦のかしこを血の色に染めた。
「夕日よ、我が手を朱に染める夕日よ。慈悲あらばその光で、罪に染まりし我が手の汚れを清めたまえ。叶わぬならばせめてかの人を抱くは我が手にあらず、清き者の手であらしめたまえ。」
感傷的になったマルクは、ぼそりと戯曲の台詞を呟いた。
「詩人がこんなとこでなにしてんのさ。」
唐突に背後からかかった声にマルクはとっさに振り向こうとしたが、手を動かした途端もたれていた櫓の手すり木に細長い短剣が突き刺さった。
「動くんじゃないよ。」
張りつめた殺気がこもっていたが、まだ幼い響きの残る女の声だった。マルクは短剣を眺めて目を細めた。マルクの腕から指数本分しか離れていない場所に突き立っている短剣はタッシュという投擲専用の武器で、柄頭のない鋭利な鉄片である。狙いさえよければ一撃で相手を仕留められる十分な殺傷力があるし、毒が塗られていることも多い。何も塗られている様子はないが、危うく殺されかかったマルクの心に静かな怒りが広がった。
「誰だ。僕に何か用か。」
「訊いてんのはあたしだよ。」
女の声がぴしりと響く。マルクは鼻を鳴らして答えた。
「砦を見物してたのさ。ここから見えるのは砦か砂漠か森だけだろ。他に何を見ろって言うんだ。」
「口が達者だね、グラム人。もう一回だけ訊くよ。何してた。」
マルクの目がさらに細くなる。
「じゃあ、もう一度言ってやる。見物してたのさ、この砦を。」
マルクは言い放つと同時に振り向きざまに剣を抜き打った。マルクの動きに反応して声の主が放ったタッシュがその一刀で弾かれて物見櫓の木の床に突き刺さった。マルクはすぐさま声のした方に身構える。女は間髪入れず三本のタッシュが同時に放ち、正確に彼の喉と心臓と右膝をねらった。マルクはとっさに二本を叩き落としたが、喉を狙った一本はわずかに逸らすのが精一杯だった。マルクの左顎をかすめたタッシュは、マルクの後ろ髪を削ぎ落として飛んでいった。
「ち。密偵にしちゃ腕がたつじゃないの。」
夕日の赤みのせいで声の主ははっきりと見えなかったが、櫓の向こう端に立つその姿は小柄ながらしなやかな狩猟動物を思わせた。長い赤毛の前髪が顔を隠していて、表情は見えない。その腕は次のタッシュを打とうと動いた。
「待て!僕は密偵じゃない。」
「じゃなけりゃなにさ!」
声と同時に腕が振り下ろされる。タッシュを叩き落とそうとグラミカを振ろうとした刹那、飛んでくる音の違いに気付いたマルクはとっさにかわした。危うくかすめたのが目潰しの小袋であることに気付く間もなく、体勢の崩れたところを狙って女は左からタッシュを打ち込んだ。この方向ではマルクは防御のしようがない。
『まずい!』
正確に首を狙ったその一投に瞬間死を覚悟したが、訓練された体が反射的に動き、マルクはその場に倒れて何とかギリギリでかわした。マルクは心の中で舌を巻いた。マルクは剣の技に多少の自身があったが、これ以上かわし続けるのは無理だった。この際やられた振りをしておこう。このまま続ければこの凶暴な娘も自分も無傷では済まない。
「あ・・・ぐぅ・・・」
タッシュのかすめた顎から流れるわずかな血が臭うのを幸いに、マルクはうめき声を上げた。どうせ完全にしとめたとは思っていまいが、油断は誘える。マルクは冷静に隙をうかがった。
「あれ?手応えはなかったんだけどなぁ・・・」
腕の冴えに反して、女は随分と軽率だった。おそらくはマルク以上に場数が少ないに違いない。近づいてきた足音の無邪気さに、マルクは思わず吹き出しそうになった。
「一応生きて・・・るみたいね。どーすっかなぁ。」
女はつま先でマルクを軽くつつきながら真剣に思案した。あれだけ激しく攻撃しておきながら、いざ相手を倒したときの事をわずかも考えていなかったらしい。マルクは苦痛の演技を続けながら、女を観察した。女、いや声の感じからも伺えたがタッシュ使いの正体はマルクより二歳は年下の少女だった。革の半長靴からすらりと伸びた足は健康的ではあったが、その上にタッシュを何本も差した革の剣帯が二本もぶら下がっているのはどうにも剣呑だ。燃えるような赤毛の少女は眉根を寄せてかわいらしく困惑の表情を浮かべていた。先ほどまでの熾烈な攻撃者のその表情と、うって変わった隙の多さにマルクは当惑した。もちろん、顔には出さなかったが。
「とどめ・・・さしたらまずいよなぁ・・・とりあえず、縛り上げて隊長のとこ連れてくか。」
おもむろに服のどこかの隠しから細い鋼線を取り出した少女は、マルクの側にしゃがみ込んだ。少女がうめいてるマルクの腕に手をかけた瞬間、もがいていたマルクの手が少女の指をねじ上げた。
「あっ!」
少女の悲鳴が上がる一呼吸の間に、マルクは少女の右腕を背中にひねり上げ、抵抗する間も与えずにうつ伏せにねじ伏せていた。マルクは愉快そうに、そして多少意地悪く声をかけた。
「ははっ。お嬢さん、幾らなんでも詰めが甘いよ。」
「っきしょう!死んだ振りだなんて汚いじゃないかっ!」
「まぁまぁ、話を聞いて・・」
「くそぉっ!放せっ!」
少女は一瞬にして形勢が逆転したことに抵抗して暴れた。しばらくマルクは宥めようとしたがマルクが声を掛ければ掛けるほど少女は興奮し、一向に大人しくする様子がない。
「なぁ、人の話も・・」
「放せ!人間のくず!グラムのトカゲやろうっ!」
いい加減手を焼いたマルクは、ねじ上げた少女の腕に力を加えた。
「静かにしろ。あまり暴れると腕を折る。」
マルクが冷たい声で囁くと、少女はやっとの事で幾分大人しくなった。
「ふぅ。やっと話を聞く気になってくれたか。」
密偵め、殺すんなら早くしな。」
「さっきも言っただろ、僕は密偵じゃない。ソロスの騎士だ。」
「はぁ?ソロス?」
「そうだ。この砦の客だ。納得してもらえたかな。」
「はん!あんたがソロスの騎士なら、あたしはエディアのお姫さまだよ。」
口の減らない少女にマルクは嘆息した。このまま言い合っていても埒が開かない。腹の空いて気が短くなってきたマルクは、とりあえず手っ取り早く済ますことにした。
「きゃあぁっ!何しやがる!!」
少女が悲鳴を上げて抵抗するのも構わず、マルクは少女の体中からタッシュやその他の危険な代物を一個一個探り出しては武装解除した。
「いやっ!やだっ!ばかっ!」
誰か見ていれば、若い男がいたいけな少女に不埒なことをしている様にしか見えないだろう。眉をひそめてそう考えながら、マルクは黙々と作業を進めた。小柄な体のそこここから出てきたのは、相当に物騒だった。タッシュが六本、目潰しの小袋が三つ、火種入れ、油の小瓶、柄付きの鋼線、砂鉄棍、毒の仕込んである特殊な短剣ネウジュ一本、貼りのない薬の小瓶四つ。タッシュの数もさることながら、その他の装備品は放火や強盗や暗殺用の物だ。少しばかり興味をそそられたが、いちいち聞きとがめてはかえって密偵に間違えられかねない。ただの騎士ならばこれらが何であるか明確には理解できないだろう。
マルクは少女の腕をあまりきつくなり過ぎないように捻り上げたまま、彼女を立たせて櫓のはしに連れていった。
「何する気よ。」
マルクがかなり手早く武器を剥いだせいか、少女の声は微かに震えていた。
「さて、よく聴くんだ。お前さんをこのまま放すから、こっちを向かないでそのまま立っているんだ。僕がいいって言うまでだ。分かったか?」
「ふん。手を離した瞬間に喉にかみついてやる。」
やれやれ、何て女の子だ。女の本性は魔性にありというのは、あながち間違いでは無さそうだ。マルクは一際大きくため息をついた。
「僕の剣の腕は察しがつくはずだ。腕力だって勝負にならないだろ?」
「こっちが気を抜いた瞬間に、間合いを取って切りかかるんじゃないの。」
「そうするならこのかわいい腕を折っておくさ。」
「あんたが櫓を降りてる間に、上からタッシュを飛ばしたっていいんだよ?」
「そう思うなら口にしないことさ。こっちにだって奥の手はある。」
言うなりマルクは離れた。
「いいか?そのままだぞ。」
そういうとマルクは、素早く櫓の下に続く丸太梯子を裏側を伝って降りた。これならば取りあえず下に降りるまで射線が通らない。ありがたいことに上で動く様子はない。マルクの脅しが利いたのだろうか。
 マルクはさっさと下に降りると上を見上げた。上では憮然とした表情の少女が見下ろしていた。夕日の最後の光に照らされて、乱れた髪の間から見える彼女の容貌は凛としていて少年のようだったが、それでもなかなかに可愛かった。
「もういいぞ!」
マルクが声をかけると、少女はさらに表情をむっとさせて怒鳴った。
「おぼえてろ、グラム人!このぉ!いかさま騎士!」
「覚えておくさ。物騒きわまりないお嬢さん。」
マルクは心底愉快そうに笑いながらきびすを返した。後ろではまだ少女がよく通る声で罵っていた。