レスギンの獅子(6)

 レスギン砦での第一日目はマルクにとって満足のいくものとは言えなかった。夕食は一応城の騎士達と一緒にとったが、食事の不味さもさることながらラタール人騎士達の愚劣さには心底腹が立った。
「ソロスの騎士殿はなかなかの男前ですな。さぞや女どもを泣かせたんでしょうな。」
「いやいや、この騎士殿はお若いから、まだ女の味を知らんかもしれんぞ。」
「女の味は知らなくても、男の味は知っておるのではないか。」
四人の騎士の哄笑が食堂に響く。城代の姿はなく、彼ら四人と城代がそう親しくもない様子を見て取れた。小心者の城代と知性の欠如した騎士。マルクは不愉快な様子を努めて出さないように食事を続けた。
「ソロスの騎士と言えばロカール人の血をすすると聞きますが、普通の食事もなさるようですな。」
ロカール人なら傭兵どもにもいくらかおりますな。いかがです青騎士殿。食後の一服に血でも召し上がっては。」
「それはよい。ついでにあの剣が飾りかどうか見れようものだ。」
ラタールの騎士道ここに地に落ちたりといった侮言の数々にマルクは吐き気がした。これ以上自分を押さえる自信が無くなってきたマルクは席を立った。
「失敬する。」
「おうおう。ソロスの獅子殿は逃げ足がお得意のようだ。」
食事を中座して引き上げるマルクの後ろからはまだ侮辱が続いていた。

「ソーティス卿、何故言い返さないのです!あれだけの暴言を吐かれて黙っているんですか!」
食事の間中じっとマルクを見ていたラドビクは、一言も言い返さずに退散するマルクに失望の色を浮かべていた。
「あんな奴等ソーティス卿なら細切れにしてやれるじゃないですか!」
「愚劣と蒙昧は病だ。彼らは病人なんだ。」
マルクは暗い目をして言った。
「彼らが何を言ったとて、剣を抜けばこちらの負けだ。我々はラタールの騎士道を正すためにここに来たわけではない。マイソミアを通り抜けるために情報を仕入れに来たんだ。忘れたか?」
「しかし・・・」
「でももしかしもなしだ。連中の言動をよしとしないなら、自分がああならないように肝に銘じることだ。いいな、ラドビク。」
努めて冷静にラドビクを諌めたが、マルクの心が平静だったかというとそうでもなかった。あの騎士達を寸刻みにしてやった方が、おそらくは世のためになるだろうと考えていた。だが、騎士はともかく先刻の少女の手並みを考えればここの傭兵の質が高いことは良く分かる。一時の怒りに任せて騒動を起こし、あの傭兵達を敵に回すのは考え物だ。それに、城代の前で彼が演じた役割は間の抜けたソロス人の騎士という役割だ。彼らに侮る隙を与えたのはマルク自身であることは間違いない。ともかく、しばらく忍耐することにしよう。そう、数日で彼らとは顔も会わさずに済むようになる。

 部屋に戻ったマルクは早々に床についた。ラドビクはすぐに寝入ったようだったが、マルクは久々に剣を抜いたせいか、血が騒いでなかなか寝付けなかった。マルクは寝具の中で寝返りを打ちながら、今日一日の出来事を反芻した。
 まず、この砦の人事は奇妙だった。レスギン砦とその財宝の噂はラタールに入ってからしばしば耳に届いたし、ダルク=オーウェンノ男爵の狡知なことはこの砦の運用からも分かる。ではなぜ、これだけの要所にこれだけの馬鹿ばかりを集めたのか。騎士達や城代がわざわざあんな演技をしているとは思えないし、他にましな連中がいないわけでもあるまい。明らかにニカロン男爵は意図的にこの人事を行ったのだ。ならば、なぜ。
 その次に、質がいいとはいえ兵の数が少なすぎる。昼間マルクが出した数字は前提として城主が自分であることが入っている。ニカロン男爵ならずとも、敵襲時にあの城代が五百程度の兵数でこの砦を支えられるとは思わないだろう。だが、練兵の様子やあの少女の腕からしても、この砦の傭兵が一流どころの連中なのはよく分かる。もし男爵が金をケチったのだとしたら、わざわざ腕のいいのを雇うはずがない。傭兵の報酬には底値もなければ天井値もない。もし城代や騎士もろとも砦を囮にするならばもっと安い傭兵を雇ったはずだ。意図的に腕のいい傭兵を集めているのはなぜか。
 マルクはどこかからまだ見ぬこの城の所有者の哄笑が聞こえるような気がした。マルクのうちで葛藤が渦巻きはじめた。この不愉快な砦から早く抜け出したいという欲求、そして抑えきれない好奇心。
「数日だけ逗留してみよう。数日だぞマルク。深入りはするな。」
そう呟いたマルクは自分の好奇心の強さに顔をしかめて、寝具をかぶり直した。

 翌朝、マルクは日が昇るのと同時に行動をはじめた。部屋を出る前に左腰にグラミカを佩き、念のために右腰にはジルを佩いた。ジルは平たく言えば短いグラミカ刀だ。グラム人固有の武器であるグラミカとジルは特徴的な反り身の刃を持つ、突いて良し切ってよしの片刃の剣だ。グラミカは通常両手で使い、ジルはその予備のようなものだが、それぞれを左右の手に握ることもある。マルクは何か予感を感じていた。今日はきっとこれを使う機会があるだろう。マルクは愛刀の刃を丹念に調べてから、まだ寝息を立てているラドビクを起こさぬよう静かに部屋を出た。
 最初の目当てはこの砦の書庫だった。マルクの知る限りこの砦は七百年以上使われている。相応の記録は置いてあるだろうし、図面も見たい。場所は昨日ラドビクとうろついている間に確かめて置いたので迷わずにたどり着けたが、半地下の書庫の扉にはあいにくと古びた錠が下りていた。マルクは辺りに誰も人がいないか慎重に確認したあと、ちょっとばかり後ろめたい思いをしながらインチキをした。
「外れろ。」
マルクがそっと指を触れると、錆びた錠前は不承不承といった感じでゆっくりと外れて下に落ちた。石畳にひどく派手な音が響いた。びくっとしたマルクは錠を拾うとさっと書庫に入った。ちょっとした盗賊気分だった。
 書庫の中は期待していたよりも状態が良かった。空気も乾燥していたし、日光も差し込んでいない。ほの暗い部屋を覗き込んでマルクは手早く火を起こして燭台に明かりを灯した。明かりに照らし出された書庫は思ったよりも大きく、書架に平積みにされた羊皮紙の山と竹簡はかなりの量に及んだ。マルクは舌打ちした。羊皮紙はマルクが普段使い慣れている普通の梳いて作られたと違って乾燥したままで置いておくと固まってしまう。霧吹きがなければ開くときに崩れてしまいかねない。取りあえずマルクは羊皮紙の山は避けて竹簡から手に取った。記録は大体年代順に並んでおり、一番古いものは八百年近く前のものであった。奥に向かって調べていくと、古いエディア語の文字は古イリス語の文字に変わり、ラタール語の文字となって約百五十年前で終わっていた。予想していたことだが、ラタールの王朝が無くなって以降の記録は見当たらない。奥には別の書架がありそこには砦の改築時の記録や図面が置いてあった。マルクは幸運に感謝して図面と付き合わせながら記録を読み進んだ。
 記録は大方がいい加減なものだったが、一つだけ非常に精密な数字と描写のあるものが見つかった。それは、二世紀ほど前にラタールの国王が命じたこの砦の改築時のものだった。その改装はほぼ現在の城郭の原型となるものだった。その記録には測量から設計・工事の段階まで、費やされた労働力と費用と時間、案出されたものの使われなかった防御構造物まで全て記載されていて、これ一冊でこの砦の全容を明らかにするものだった。頷いたり小さく感嘆の声を上げたりしながらマルクは貪るように読み進んだ。
 マルクがその記録を大体読み終える頃には、すでに地に落ちる影が短くなっていた。慎重に書庫を抜け出したマルクは、ひどく腹が減っていることに気がついた。兵舎と城館に囲まれた胸壁前の広場には旨そうな匂いが漂っていた。よく見ると、七つある兵舎からは炊事の煙がたなびいていた。どうせ今日の二つ目の目的は傭兵達に話を聞いてみることだったので、マルクは手近な兵舎に近づいていった。きっと、何か分けて貰えるだろう。

 マルクが兵舎の食堂と思しきところを覗き込むと中はまるで貧民窟の炊き出し所の様にごった返していた。
「ん?おめぇ新兵か?…ははん。食いっぱぐれたんだろ。来な。」
「え?」
唐突に声をかけられたので、マルクはまごついた。三十過ぎくらいの赤ら顔のその傭兵はマルクの腕をつかむと、ぐいぐいと中につれていった。男は奥の厨房に首を突っ込むと辺りの喧噪に負けじと声を張り上げた。
「賄い長!この坊主に飯を食わしてやってくれ!新入りらしいんだがこの騒ぎに泡くっちまって食いっぱぐれたみてぇだ!」
「新入り?この時期にか?」
顔に無数の傷がある非常に凶悪な面構えの大男が厨房から顔を出した。最初この傭兵隊の隊長かと思ったが、手に馬鹿でかいしゃもじを持っているところを見るとどうやらこの男が賄い長らしい。山賊の頭領でも通りそうな賄い長はマルクを胡散臭そうに眺めた。
「新入りが来るなんて話は聞いてないぞ。」
「まぁいいじゃねぇか。余所の隊の奴でも一食ぐらい食わしといても罰は当たらん。」
「ふん。隊長はあんただ。好きにしな。」
賄い長はそう言うとごつい手で豚肉を挟んだ黒麺麭と豆のスープが入った器をくれた。何となく勢いに押されて受け取ってしまったので、マルクは今更自分は騎士ですとは言い出しにくかった。マルクはうっかりと青の上衣を着忘れていたので、普段着の上着に下履きでは新入りの傭兵に間違われても仕方がない。
「ほれ、新入り!さっさと食わねぇと盗られちまうぜ。」
「あ、ありがとう。」
 気のいい隊長の言葉に甘えて、マルクは中庭の方に出て物陰に座り、食事を平らげ始めた。マルクは食事をしながら目立たないように傭兵達の様子を観察した。全ての傭兵隊がここで一斉に昼食をとるわけではないのだろう、ここにいる傭兵は百人前後のようだった。傭兵達は休憩中なのか思い思いの場所で昼食をとったり昼寝をしたりしているが、打ち解けた気楽さはあるもののだらけた雰囲気はなく、隊同士の諍いもあまり無いようだ。砦に詰める傭兵らしくないと言えばそれまでだが、マルクは昨夜の食事よりもこちらの雰囲気の方が好きだった。
 傭兵達が休憩をとっている場所から少し離れた日向のテーブルでは、さっきの赤ら顔の傭兵隊長ともう一人髭の白くなりかかった格幅のいい男が差し向かいで話していた。髭の男の方も上衣を着ているので、おそらくはこちらも傭兵隊長なのだろうとマルクは当たりを付けた。マルクは食事を平らげて食器を返すと、傭兵隊長にどう声をかけたものかと逡巡した。さっきの礼を言うべきだろうが、いきなり騎士だと言っても驚くか怒るのが関の山だろう。しかし嘘をつくのも気が進まない。ともあれこの近辺や街道のことを聞き込むにはいい機会だ。マルクは、最初の一言を思案しながらそちらに向かって歩き出した。

 テーブルのそばに寄った彼の肩を誰かが掴んだ。振り向こうとした瞬間に、マルクはいきなり後ろに引っ張られて仰向けに転がった。辛うじて頭は打たなかったが背中をしたたかに打った。埃まみれになったマルクに底意地の悪い笑いが浴びせられた。昨晩の食事で彼に侮言を吐いた騎士達だった。
「ソロスの青騎士殿はこんなところで昼寝ですか。なかなかお似合いですなぁ。」
マルクを引き倒した大柄な若い騎士が言うのに、後ろにいる残り三人の中で一番年長の騎士が答えた。
「リノン卿、この方は我々とは趣味が異なるようだ。野蛮人らしく地べたを這うのがお好きなようだから、一つ君が騎士らしいたしなみを教えてやりたまえよ。」
マルクを引き倒した騎士が握り拳をこれみよがしに作って骨を鳴らした。残りの騎士もはやし立てる。マルクは視線を冷たく向けた。
「何か用ですか。」
騎士達はニヤニヤ笑いを浮かべてマルクを見下ろした。
「はん。まだ騎士の真似事か、小僧?『何か用ですか。』だと?剣一つ満足に振れんくせに一人前のつもりか?」
「ダハル卿のおっしゃるとおりです。この小僧に一つ騎士らしい戦い方を教授してやろうではありませんか。」
若い騎士三人が年長の騎士に追従する。マルクの心に冷ややかな怒りが広がった。この男達は何処まで愚劣なのだろうか。騎士として、いや人としての最低条件さえも満たせないのか。
騎士騎士に挑戦するならば手袋を投げるものです。ラタールの騎士はその程度の儀礼も知らないのですか。」
立ち上がりながらマルクがゆっくりと言い放つと、目の前の若い騎士はいきり立った。
「なんだと!貴様のような小僧に挑戦などするか!しつけのなっていないソロスの犬に教育してやろうってんだ!」
もはや騎士の仮面をかなぐり捨てた男は、前置きもなしに殴りかかってきた。我慢も限界に来ていたマルクは諦めた。もうもめ事を避ける事は止めよう。マルクはその男の拳を受け流してそのまま右腕を掴み、遠慮なしに手首をねじ上げて男の肘に掌を当てた。
「ふっ!」
マルクの口から気合いの声が漏れると、男は悲鳴を上げて転がった。マルクが男から手を離すと男の右肘から先は折れ曲がってぶら下がった。
「次は誰です。」
マルクはもはや冷静でなく、常になく好戦的になっていた。この者達に、自分たちが喧嘩を売った相手が誰なのか思い知らせる必要がある。それは、マルク自身の誇りに加えてソロスの名の問題でもある。足下で哀れっぽい声を上げる男の上衣を、マルクはこれ見よがしに踏みつけた。ラタールの徽章である雄牛をあしらった上衣を踏みにじったマルクは、残りの騎士の紛い物に挑戦するような眼差しを向けた。
「次は誰だといっているんです。何なら三人まとめてでも構わないませんよ。ソロスの騎士を侮辱するとどれだけ高くつくか教えて差し上げましょう。」
男達は明らかに動揺していた。ひょろっとした弱腰の小僧がいきなり豹変し、がっちりとした男の腕をへし折ったのだから当然とは言える。男達が戸惑っている間に辺りには野次馬が増えていた。昼食時に喧嘩騒動が起こるのは気の荒い傭兵のことだからそう珍しくないだろうが、それが城の騎士と余所者の喧嘩となるとそう見れるものではない。傭兵達は興味津々といった感じで辺りを取り囲んでいる。
「くそ、このガキに大口を叩かせておくのか!おまえたち、こいつを叩きのめせ!剣を抜いてもかまわん!」
さっき野蛮人がどうのと口走った首領格のダハル卿が泡を飛ばして怒鳴った。他の二人はおそるおそる剣を抜いた。
「おいおい、騎士さん方よ。」
騎士二人が剣を抜いた様子に例の赤ら顔の傭兵隊長が口を挟んだ。
「幾らなんでも相手はまだ子供だぜ。やりすぎと違うか?」
唐突な横槍に剣を抜いた二人はダハル卿に目を向けた。ダハル卿が返答に窮しているのを見て、マルクはにこりともせずに先に答えた。
「わたしを心配してくれるのなら、彼らが先に剣を抜いたことだけ誓ってください。出来れば正式な立会人をしていただきたいところですが、三対一では決闘とは言えないでしょうね。」
そう言ってマルクは静かにグラミカの鍔口を切った。マルクの血の故国の名を冠した彼の愛刀グラムは昼下がりの太陽を蒼く照り返した。挑戦の印に愛刀を胸元に立てたマルクは、目をしっかりと据えてグラム流刀術の基本型に構え直した。
「あん?しかたねぇなぁ。まぁ、そう言うことなら俺達は手を出さないから、存分にやんな、騎士さん方。」
仲裁を入れたつもりの傭兵隊長は呆れ顔でマルクを見た。マルクは軽く会釈を返した。彼の気遣いは嬉しかったが、この連中に選択の機会をやるつもりはもはやなかった。憶するくらいならば喧嘩を売らねばいいのだ。
 ラタール人の騎士達は、このソロスの騎士だと名乗る小僧が剣をまともに使えると思っていなかった。当節グラミカ刀を持つもののほとんどは伊達であったし、ラタールではそもそもグラミカ刀などほとんど見かけない。この小僧は金持ちかも知れないが、腕っ節でひけを取るはずがない。だが、彼ら予想に反して若造は意外に手練だった。もはや引っ込みがつかないのだが、剣をかまえた二人は後込みして切りかかる様子もなく、虚勢の声だけ何度か上げた。まわりの傭兵達から野次が飛んだ。
「どうした!ラタールの騎士様は二人掛かりでも小僧に勝てねぇのかよ!」
「やる気ねーのかぁ!」
「腰抜けがどっちかよく分かるぜ!」
野次られて二人は頭に血が上った。
「死ね!」
「小僧!」
同時に切りかかってきた二人をマルクは軽くいなした。男達も何度か切り結んだ経験はあるのか多少の殺気があったが、間合いの取り方や気息の運びは素人のそれと言って良かった。対してマルクは、歩けるようになった頃から父に剣を仕込まれ、学院に入ってからは刀術の師範に正式について研鑽を積んだ。そのうえ、やむなくとはいえ人を斬ったことも幾度かある。実力の差は明らかだった。マルクは二三合渡り合ってそれを悟り、それ以上は剣を合わせることもなく二人を片づけた。一人は右肩をもう一人は右手の甲をしたたかに切り裂かれてうずくまった。マルクの手応えからすれば正確に腱を断ち切ったはずだ。しばらくは、いやおそらくはこの後一生剣は握れないだろう。
 マルクは冷静ではなかったが、彼らの命を取るつもりはなかった。だからといって彼らをただ許す気もなかった。身に溢れる怒りの中でマルクが断じたことは、彼らの体に消え去らない印を残すことだった。この程度の傷ならば、騎士を忘れさえすれば生きていけるだろう。それこそがマルクの求めた結果だった。この男達の在りようは『騎士』という概念自体への冒涜である。彼らがこのまま騎士であることは許されない。二人にそれぞれ一瞥をくれたマルクは、殺気に満ちた顔で最後の年長の騎士に目を向けた。
「ラタールの騎士は、礼儀だけでなく剣の使い方も知らないようですね。」
ダハル卿は激高するべきか悲鳴を上げるべきか判断が付かないようだった。この期に及んでの逡巡の様にマルクはじれた。
「貴公に選択の余地を差し上げます。自らにふさわしくないその雄牛の上衣を捨てるか、それとも剣を抜くか。二つに一つです。」
マルクが冷たく言い放った言葉に野次馬は静まった。上衣を捨てることは即ち騎士を捨てることに等しい。マルクがいった言葉は、事実上この年長の騎士を追いつめるためだけの言葉だった。
「き、きさまぁぁっ!」
逆上したダハル卿は剣を抜く手ももどかしくマルクに切りかかった。その雄叫びは、あるいは悲鳴に似ていると言っても良かった。
「それが答えですね。」
冷たく答えたマルクはダハル卿の真っ向上段からの一撃を右手のグラミカで受け、左手でジルを抜き打った。グラム流刀術・二枝剣。本来ならば脇腹を切り裂く技をマルクは相手の手元に打ち込んだ。
「ぎぁぁぁぁ・・・・」
ダハル卿の右手から剣がこぼれ落ち、その手から吹き出る血の中にぼとりと何かが落ちた。この哀れな男の親指だった。うずくまったもはや騎士とは言えない男の姿を見下ろして、マルクは刀を納めた。地に落ちた剣をみているうちに静かに怒りと興奮が退いていき、マルクの心に次第に哀しみと後悔が広がっていった。
「やるじゃねぇか、若いの。」
先ほどの傭兵隊長が声をかけてきた。それをきっかけにマルクのまわりに野次馬が集まった。彼らは口々にマルクの剣技を讃えた。マルクは弱々しく笑った。讃えられるほどマルクの心にやりきれなさが募った。マルクは傭兵隊長に近づいた。
「あの。お願いしたいことがあるんですが。」
「ん。なんだ。」
「彼らを・・・手当して貰えませんか。放っておくと死んでしまうかもしれない。」
マルクは目を覆って言った。
「ああ。承知した。お前、大丈夫か。」
「ええ。ちょっと疲れただけです。では、お願いします。申し訳ない。」
マルクが足を進めると傭兵達は道を空けた。マルクは、重い足取りで客室への道筋を辿った。

 逃げるように部屋に戻ったマルクは両の剣を放り出し、寝台に横たわって目を瞑った。むかつく胸の違和感が、それ自体が心のしこりであるかのようにマルクを苛んだ。先ほどの小さな戦闘が順々に心に浮き上がってきて、マルクは息を沈めるように大きく呼吸を繰り返した。
 マルクは自分の抱えているものがなんであるか余さず理解していた。自らへの疑念。人を傷つけたくはないと思いつつも、結局は騒動を起こし人を傷つけた。技術に驕って人を斬った。戦士として生きる以上、人の命を奪うことは避けて通れない。すでに一度人を手に掛けているにも関わらず、マルクの心の中では未だに人を殺す覚悟というものが出来ていなかった。四人の騎士の命を絶たなかったのは、命を重く思うためではなくただ己の技量を驕ったが故ではなかったか。たった今四人の男を騎士にふさわしくないと断じたにもかかわらず、騎士の心構えがなかったのは本当はマルク自身ではないのか。かれらを懲らしめるなどというのは自分の傲慢ではないのか。身を守るだけならば彼らを傷つけずとも済んだのではないか。自分はただ怒りにまかせて彼らを斬ったのではないか。
 マルクは目を覆って、やりきれなさに目を押さえた。知識と魔術と剣技を兼ね備えた近衛騎士も、その心はまだ明け切らぬ未明のうちにあった。