ジルフィンの指輪(5)

 「私は、かつて、豊かな草原の国、緑なす丘の集う国、ロンダリアの王だった。もう憶えているものとていない、遥かな昔の事だ。わが国は豊かで、馬を駆る我らは、自由で、力強く、我らの日々は喜びに満ちていた。だが、我らの繁栄を快く思わぬものがいた。南の帝国、エディアの皇帝だった。彼は、我らの馬を欲し、我らの女を欲し、我らの緑なす土地を欲した。彼らは、我々を野蛮人だと考えていたのだ。私は、それが絶望的なものであろうと、戦わねばならなかった。剣を取っての戦いでは、我らは決して負けはしなかった。だが、魔道を我が腕のように使う彼らに、我らが如何に抗し得ようか。幾度かの戦いに敗れたとき、私は決心した。指輪を、世界を作り出したジルフィンの指輪を手にいれよう。そして、その力をもって、わが国を守ろうと。
 私は旅に出た、長くつらい旅だったが、友や、賢人の助けを得て、ついにこの指輪を手にいれた。私は、故郷へと急いだ、あの愛すべき草原の国へと。しかし私を待っていたのは、魔道の炎で焼かれ、荒廃した故郷と、家族や一族の無惨な躯だった。私は、我を忘れた、そして、指輪の力を使って、この世を呪った。私の国を、家族を、希望を奪ったエディアを呪い、彼らの住むこの世を呪い、彼らを生んだ神々を呪った。だが、その過ちは、取り返しのつかないものだった。指輪は壊れ、その呪いは、黒き神々を呼び、妖魔を呼び、戦乱を呼んだ。私は、自分の起こした事に、呆然としていた。その時だった、私が精霊達の手で神々の前に連れて行かれたのは。
 神々は、私を叱責し、責め苛み、呪った。だが、そんな私の前に二つの、傷ついた魂が現れた。それは、私の二人の妹だった。二人は、私をかばい、私のために神々に慈悲を請うた。その願いは、神々の母、エル神に届いた。彼女は、二人の魂を精霊とする事を代償に、私に新たな機会を与えてくれた。私に、呪われた、不死の身体を与えて、この世のどこかに再び現れるであろう、新たな指輪を探し出す事を課したのだ。」

 彼は、その呪われた身体を休めると、その動かない口を閉じた。
「あなたは、その指輪で、次に何を願うのですか。」
イリリアは、囁くような声で聞いた。
「それを、私も考えていたのだ。この永遠とも思える探索の間、ずっと。」
そして、彼は私たちの方に顔を向けた。
「私は何を願うべきなのだろうか。この世には、不正や、争いや、災厄が満ちあふれている。そのどれを正せばいいのだろうか。」
私とイリリアは、無言で顔を見合わせた。気の遠くなるような昔から、考え続けてきた彼に、私は何を言えばいいのだろうか。だが………私は、口を開いた。
「あなたはこの世を呪ったのですよね。呪いを正すには祝福すればいいのではありませんか?」
「だが、しかし、それでは何も変わらない。」
「そんな事はないわ、あなたが、この世界を見続けてきたあなたが、祝福するんですもの。それに、何も変わらないなんて事はないはずよ。エル神は言ったのでしょう。人間は、弱いけれど、可能性に満ちていると。」
横でイリリアが、うれしそうに微笑むのが感じられた。
 エンデュークは、少しの間下を向いていたが、不意に立ち上がった。
「ありがとう。おかげで決心がついた。私ははじめ、君達に出会ったのは偶然だと思っていたが、どうも、その偶然に感謝したい気持ちだ。」
彼は立ち上がって、指輪に向かった。彼は、おもむろにその指輪を手に取ると、しばし眺めて、その異形の指にはめた。
 彼はこちらに向き直った。
「神々よ照覧あれ。私は願う。この世に光りあれ、人々に希望あれ、世界に祝福あれ。」
その時の事を、私は、正確には憶えていない。ただ、辺りに光が満ちあふれ、何か、強い力が感じられた。私は、彼の姿を正視できなかったが、眼の端に映った、彼の真の顔が見えた。それは、穏やかで、幸福そうな、普通の人間の顔だった。その先の事は、よく分からなかった。ただ、遥か彼方へと遠ざかる、柔らかな笑い声だけが、記憶に残っている。

ジルフィンの指輪(6)

 私が目を覚ますと、そこは先のホールだった。辺りの様子はあまり変わらなかったが、明かりだけは消えていた。私たちはしばらくそこで寝ていたようだった。私は、傍らのイリリアを揺り起こした。彼女はゆっくりと目を開けた。
 私たちは、暫く、その場所で身を寄せあっていた。不思議と、疲労も空腹感もなく、隣に彼女がいる事で、私は満ち足りていた。
「ねえ。」
彼女は私の手を握って、言った。
「諦めなくてよかったね。」
「ああ。」
この時、私は、彼女との間の壁が、立場という、私が意識的に作っていた壁が、無くなったように感じた。

 私たちが、腰を上げねばならないときが来た。ここでずっとこうしていたい、というのは、無理な贅沢だった。
 このホールを出る途中、私たちは、一つの像の前で立ち止まった。それは、彼が立ち止まった場所だった。私たちはその像に見入った。その姿は、最後にみた彼の真の姿によくにていた。私たちは、無言で微笑んだ。

 外に出ていくと、既に夜だった。私たちの前には、昇りつつある、剣のように細い月があった。雪が軽く覆った世界は、神秘的で美しかった。これから、都に戻らねばならない。そして都では、困難が待ち受けているだろう。しかし、私の心は軽かった。私の側には彼女がいる。それは変わらないだろう。

 その後、私たちと、世界がどうなって行ったかは、この際蛇足だろう。都では、友人達が、未解決の問題を山ほど抱えていた。何より問題は王位だったが、イリリアが、継承した王位を、その父レイモンドに譲るという離れ技で決着がついた。(後で聞いた話だが、友人の傭兵などは、継承者に困ったら私にやらせる心積もりだったらしい。空恐ろしい話だが。)
 私は、引退すると言ってどこかへ旅に出てしまった師匠の後を継いで、柄にもなく学院の導師になった。(これも、師匠のいらぬ御節介だった事が判明した。)
 私の住む王国は、かつて程では無いものの、繁栄の兆しは見え始めている。世はなべて事も無し、という訳にも行かないが、暇なよりは、私は楽しい。
 私と彼女は、未だに進展がない。導師の仕事を一人前にこなせるようになったら、彼女に結婚を申し込むつもりだが、友人の魔女には、彼女をしわくちゃにするつもりかといわれた。
 ジルフィンの指輪の行方は、誰も知らない。

                          < 終 >

レスギンの獅子について

「レスギンの獅子」は、「ジルフィンの指輪」と同じ主人公、マルク・レヴィス・グラムソーティスの登場するファンタジー小説です。背景世界は、中世末期〜ルネサンス期程度の文明を持ったファンタジー世界ですが、異種族や魔法などは比較的控えめに設定してあります。
小説のコンセプトとしては、「墨攻」や「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」(≠ロードス島戦記)のような攻城戦を主題にした話、というのが念頭にあり、それに加味してボーイミーツガールと策謀劇を盛り込んだものを考えていました。
結局、攻城戦が始まったところで力尽きてしまったので、ただひたすら鬱で伏線張りまくりの小説になっております……orz

レスギンの獅子(承前)

 砦の中には乾いた飢えとすえた恐怖の臭いが立ちこめていた。もはやお馴染みになったその臭いにたじろぐこともなく、青年はゆっくりと連射弩に太矢を詰め直し、伸びてきた顎髭をうっとうしそうに二三度掻いた。銃眼から砦の外を見やると、城壁の下からは砦の中に立ちこめる臭いにも勝る血と熱した油の臭いがしてきた。だが、下にいる兵士達はその臭いで意気消沈する様子もなく怒声をあげ、砦に対する攻撃は止む様子もない。少なくとも、彼らがこの砦を落とした時自分たちの手にはいるはずの略奪品のことを考えている限り、獣の群と化した兵が増えこそすれ減ることはないだろう。
 青年が城壁の縁から太矢を放つと、鏃が鎖帷子を突き破る鈍い音がして、補塁に取り付いていた敵兵が眼下の堀へと転げ落ちていった。続いていた敵の一団に熱したタールと矢の勢射が浴びせられ、補塁へと近づいていた他の一団の足をも止めた。兵達に何度か叱咤の声が浴びせられると、果敢かつ無謀な一団が砦に取り付くべく走り始めた。青年は傭兵らしきその一団の中で一番武装の固く見える男、傭兵隊長とおぼしき馬上の人物に狙いをつけ、連射弩の残りの矢を続けざまに打ち込んだ。太矢の一本が兜の下を貫き、喉をかきむしりながら男はそのまま馬上から落ちた。悲鳴と怒りの声が聞こえ、他の傭兵たちは男の死体を引きずると、罵声を上げて後退していった。弓弦の響きが止むと、今日何度目かの小休止が訪れ、戦場に静けさが戻った。青年は、眼下に転がる無数の屍の群に胸が悪くなった。
「いい腕だな、ソロス人。」
青年の近くに陣取っていたロカール人の傭兵が、強化弓の弦を楽々と外しながら、にやりと笑った。青年は、血と油の臭いでむかつく胸を押さえながら、何とか笑い返した。
「まぐれだ。腕よりむしろ運かな。」
青い顔で答える青年を、ロカール人は遠慮無く観察した。ひょろりとした長身には戦士らしい頑強さはないが、腰に佩いた見事な作りのグラミカ刀や連射弩の扱いは、訓練された者の手並みだ。身には銀の鎖帷子と、蒼く染め抜かれた上衣を帯び、腕を覆う籠手にはソロス独特の獅子文が精巧に彫刻されている。
 上衣を鎧に重ねて着るのは傭兵隊長騎士・貴族の特権だ。とすると、この十六・七歳の青年は何者か。
 荒くれ者揃いの傭兵隊長の一人とは到底思えない。それに自身も傭兵隊長であるロカール人は、この砦の傭兵隊長なら全員の顔を知っていた。騎士である可能性は捨てきれないが、もしこの青年が騎士だとするならば、ソロスの騎士ではないことになる。ソロスの騎士で青の上衣を許されているのは、精鋭で鳴る近衛騎士のみだからだ。残されているのは、この青年が叙爵された貴族の端くれという可能性だが、少なくとも男爵以上の歴とした貴族ならば、こんな城壁の上で弓手などしているはずがない。それとも、よほど酔狂な奇人なのか。
 ロカール人がじろじろ眺め回すと、青年は赤く焼けた金髪の下から、逆に値踏みするように見返した。その表情は大人びていたが、顔はまだ子供から一歩踏み出した程度にしか見えない。ロカール人はもう一度怪訝そうに青年を眺めた。何故こんな身なりの良い小僧がこんな場所にいるのか。身支度を見る限り、家族か親類になかなかの富裕家がいるのは間違いない。グラミカ刀も銀一色の帷子鎧も、並の傭兵には手の届かない代物だし、連射弩に至っては王侯の持ち物といっていい。ただ、もしそんな有力者の縁者がいるなら今頃首塁でのうのうとしているはずだ。そもそもここはラタールの外れで、ソロス人のいるべき場所じゃない。
 冷やかし半分に声をかけた彼だったが、目の前で連射弩に太矢を詰め込んでいる青年の様子を見ていると、奇妙な好奇心に駆られた。
「おまえさん、貴族なんだろ?何でこんなところにいるんだ?」
唐突な質問にも動じずに、青年は手を止めて顔を上げた。
「僕は貴族じゃない。騎士だ。こんな目の色のソロス貴族なんていやしない。」
青年が自分の瞳を指した。淡い碧に金色の虹彩。グロクスティア人かグラムの竜の民に多い瞳の色だ。生粋のソロス人の瞳は紺か黒で、金髪の者も少ない。どう考えてもソロス貴族にはない特徴だ。ソロス語風のハキハキしたアクセントがなければ、グロクスティア人で通るだろう。
「そうか、驚いたな。じゃあ、ニカロン男爵の騎士か。」
「まさか。頼まれてもごめんだ。」
ロカール人は、ますますこの青年の正体が分からなくなった。その青年も、ロカール人を怪訝そうな眼差しで見ている。
「ソロス人が、ソーリア王家以外の誰に仕えると思うんだ。」
青年の言は、にわかには信じがたい。
「だが、その青の上衣は近衛の色だろう。」
「ああ。よくしってるね。」
「パロイコイで見たことがある。去年の夏の、星誕祭の頃かな、たしか。ワノーマスの乱やなんやらでごたごたしてた時期に。」
 自らの故国の都の名を出すときに、ロカール人は鼻をかすかに鳴らした。ロカールがソロスに属して百年以上が過ぎようとしていたが、ロカール人とソロス人の過去はこの異国の地においてもまだ、拭い切れぬしこりを残していた。青年は眉をひそめたが、気にかかったのはロカール人の態度ではなく、その口からさらりと出てきた半年前の事件の名前だった。その事件の記憶が脳裏に鮮明によみがえり、青年はわずかに顎を引いた。
「そのときは連中、甲冑に軍馬と従者付きだったが・・・そういやおめぇ、従者が居ねぇな。」
男は、彼の様子に気付かずに続けた。
「ああ、彼なら甲冑と一緒に部屋だ。肩口を射抜かれたんだ。」
「そいつはお気の毒。だが、その若さで近衛騎士とはね。おまえさんが従者でもおかしくねえ。おまえさんいくつだい。二十歳は超えてねぇだろ?」
青年ははやっとほほえむ余裕を取り戻して、ロカール人に肩をすくめて見せた。
「十七。偶然の成り行きなんだが、近衛騎士には違いない。残念ながら。」
「偶然ねぇ。」
 ロカール人は青年をじろじろ眺めた。彫りが浅く表情のよく出る顔は、朗らかすぎて軽薄そうな印象さえ受ける。緑色の瞳が金髪の下でよく動き、活力と短慮という若者独特の雰囲気を強調した。ロカール人には、この青年が偶然や幸運、あるいは実力で騎士に成り上がったとは到底思えず、むしろ生まれてきたときから決まり切った”必然”の成り行きなのだろうと勘ぐった。こいつは、ソーリアの富商の息子かなにかだろう。親が騎士位を買ってやったに違いない。その割に腕はそこそこだが。
「それで・・・なんだってソロスの若き近衛騎士殿が、こんな山城で戦ってんだ?」
「少しばかり込み入った話なんだ。」
彼が口を開いた途端、城壁の下から喚声が上がった。今日何度目かの攻撃が再開されたのだ。彼がうんざりした表情で連射弩を構えるのを見て、ロカール人は初めて皮肉の混じらない笑みを漏らした。
「俺はスワイ。あんたは?」
「マルク=レヴィス=グラムソーティス。マルクでいい。」

レスギンの獅子(1)

 レスギン砦は大グラム山脈の最南端を背にして聳えている。その偉容は、ラタール・イシャー・マイソミアの3地方をなんとも不遜な眼差しで睥睨していた。眼下に広がるイシャーとラタールにまたがる丘陵地帯は、鬱蒼とした木々に覆われて緑の波を描き、その先には巨大な内海・青銅海が横たわっている。反対側の西にはもう一つの海、マイソミアの砂漠が広がっている。普段は風光明媚な僻地として、マイソミア街道を急ぐ商人や”疾く往く者”ベラスに仕える伝令の目を楽しませるこの地方も、今や傭兵が闊歩する戦場となっていた。彼ら兵士たちの目的はただ一つ。レスギン砦に秘められた莫大な財宝である。砦の中に山と詰め込まれているという、四方から集められた貨幣と貴重品のうわさは、青銅海周辺で知らぬ者が居ないほど知れ渡っていた。
 三方を深い谷に囲まれた丘陵の尾根に城郭と五つの補塁を配してを建設された屈強なこの城塞は、今やラタールで最も有名で、かつ最も富裕な男・ニカロン男爵の所有物となっていた。そもそもレスギン砦は、旧エディア帝政時代末の戦乱期にアマルハム帝によって『文明と野蛮を分かつ柵』として築かれたものだ。それ以来この砦は、何度も南の蛮族、すなわちマイソミアの剽悍な遊牧民や、イシャーの誇り高き武人たちを退けてきた。だが、この歴戦の古強者も、新たに所有者になった守銭奴によってただの金庫番にされてしまった。男爵はこの峻厳な『威き城』を自らの財産の保管場所としたのである。それだけならば並の守銭奴に過ぎないが、男爵は、三方に広がる街道をしっかりと押さえることのできるこの砦の地の利を放っては置かなかった。男爵領の入り口に位置するこの砦を、税関としても活用し始めたのである。
 この砦が男爵の持ち物になってからしばらくというもの、無法とさえいって良い高関税にイーリスやミネアの豪商たちは悪夢にうなされ、メディアやグロクスティアの投資家たちは怒り狂う事になった。街道の通商品の税を引き上げただけならまだしも、男爵は人頭制の通行料を取り始め、挙げ句の果てに軍馬からロバ、果ては馬車まで階級を決めて通行税を取り立てたのである。砦には傭兵隊が常駐し、行き交う旅人からはあたかも山賊の根城ように思われていた。
 レスギン砦の目の前を通る街道は、マイソミア街道、別称南の大街道の名で呼ばれる交易の一大動脈で、青銅海周辺の交易人達が南方から入る希少な香辛料、香木、薬、宝石、あるいは工芸品といった商品を供給するのに欠かせない道であった。機敏で才覚のある商人はレスギン砦のおかげで物資の供給が鈍ると、すぐさま北回り航路、あるいはロカール街道からの仕入れに切り換えたが、いかんせん危険と輸送費は跳ね上がった。一部にはそれで大儲けする者もいたが、多くの商人は店を閉めたり負債に苦しんだりした。

 ニカロン男爵ダルク=オーウェンノ。エディア人の血を引く彼は今はなきラタール王家の系譜も遠く受け継いでいる。端整な容姿で折り目も正しく政戦ともに駆け引きに優れていたので、大衆にはなかなか人気があった。ただ、やり口の汚さや非情さ、加えて私欲の深さから、陰で『軍馬に乗った守銭奴』『金狩人』などと呼ばれていた。この男にとって戦争すなわち荒稼ぎの手段であり、金儲けとはすなわち政治そのものであった。他の国ならば(例えるならソロスなどでは)、男爵程度の貴族が思うままに関税をかけたりすれば、他の君主や国王から叱責や非難が相次ぎ、貴族として立ち往かなくなるのだが、此処ラタールでは話は多分に違った。
 ラタールに侯爵以上の貴族が居なくなって久しい。百四十年ほど前に正統な王室が絶えて以来、内外の勢力が千々に乱れて争い、今や『ラタール』という国家は地上に存在しないといってもいい。この地方最大の実力者が、北から勢力を伸張してきたグロクスティア帝国の属領総督という有様である。
 ラタール北部ではじわじわと浸食を進めたグロクスティア帝国に『ラタール属州』として編入される土地も多く、独立した貴族でも皇帝に剣を捧げる者が多い。中央部ではトラヴィスとララッタの二つの伯爵家が、百年になろうかという王位を巡る闘争を未だに続けて睨み合い、青銅海の対岸であるイーリスの都市国家群を巻き込んで混迷の度合いを増していた。二伯爵家のいつ果てるともない睨み合いから離れている南部は、人・ものともに豊かな土地柄ながら人物には乏しく、ニカロン男爵一人が常勝を恣にしていた。
 男爵の非凡なしたたかさは、王位を巡って睨み合いを続ける二つの伯爵家どちらとも無難に接しながらも、属領ロカール総督と手を組むことを選んだことにも現れている。男爵はいわば、二匹の雄牛が血を流しながら戦うのを、舌なめずりして眺めているヒョウといったところだった。そのヒョウは牛が共倒れになるのを待ちながら、レスギン砦という牙で南の街道を食い荒らし、その身を肥やしていた。
 この権力に賢く戦場での駆け引きも一流のニカロン男爵にしては意外なことに、掌中の玉であるレスギン砦が新たな敵対者たちを産んでいることには無頓着だった。男爵自身は、新しい財源が出来たくらいにしか考えていなかったのだろうか、それは分からない。男爵の思惑がどうあろうとも、街道が事実上使用不可能となったことは大陸全体に波紋を及ぼしていたのだ。
 レスギン砦が男爵の掌中に帰してから約一年が経ち、最初に動いたのはイーリスの交易貴族達だった。イーリス・イリーンブルの大公家、ソフォー一族を中心としたイーリス南部の諸侯はたちは、彼らの金脈の上に陣取る目障りなニカロン男爵に灸を据えるべく、ラタール南部とイシャーの諸侯を結託させたのである。陣頭に立ったのは、イシャーのカネイ伯だった。好戦的で知られるイシャー人としては変人といえるなほどに温厚で知られるこの伯は、とある事件から妻の身代金を男爵に払わされ常にもあらず激怒していた。この伯の領地に集結した傭兵・私兵の数およそ一万六千。数で言えばグロクスティアの四個軍団に当たる数が、春先の蓄えの少ない時期をねらってレスギン砦に襲いかかったのは、ソロス歴で918年3月、エディア歴で3012年の早春節のことであった。

 マルクの故国・ソーリア王国は、最東方の領地であるロカールがグラム山脈を間においてラタールと接しており、この混乱とも無関係ではない。接しているといってもせいぜいグラム山脈の麓までが通常人の住める限界なので、ロカール・ラタール双方の住民が頻繁に行き来するわけではないし、直接戦火が飛び火するわけではない。ただ隣国ラタールは、ソーリアにとって掛け替えのない意味を持つ交易路であるロカール街道の中継地でっあた。
 大陸西岸最大の都市であるソロスの首都ソーリアを発したロカール街道は、ソロスからロカール川に沿ってのびて行き、グラム山脈の峰々の間を縫ってラタールへと至る。ラタールで街道は二つに分かれる。北へ延びた道は名をアロニウス街道と改め、グロクスティア帝国、ロンダリア平原を経て北の果てケレソニアの地で秘石海に出会うまで続く。一方、東へと延びた道は青銅海を越えたイーリスからメディアの文明の地を経て、新エディア帝国に至る。花薫るエディアの先は竜牙海が広がり、大小さまざまの島々が散らばる。ロカール街道は大陸の北西海岸一帯を領有している大国ソーリアにとって、紛れもなく世界への出口なのだ。そしてラタールは、ロカール街道の玄関口にある。かつて蛮夷の地と呼ばれた西方の国にとって、東方とはすなわち文明のことであった。
 ソーリアが東方に進出するとすれば、出口はラタール以外にあり得ない。北東を竜の民の住むグラム半島と天険グラム山脈に、南東をマイソミアの砂漠に阻まれているソーリアにとって、はるかロカール高地の向こう側であるラタールは目の離せない土地だった。ラタール人がもし統一されてしまえば、ソーリアの宿願である東方への進出は容易には果たせない。かといって千々に乱れ続ければ、自国が勢力を伸張する以前に他の強国、特に二百年来の敵国グロクスティア帝国の切り取り放題になりかねない。現に今ラタールでは、グロクスティアの『属領総督』が幅を利かせている。
 イーリスの策謀によるレスギン砦攻撃の情報は、ソーリアの首魁達の耳にも入っていた。レスギン砦によるマイソミア街道の『封鎖』はソロスにとって思わぬ幸福をもたらしていた。南の大街道の起点であるミネアはソーリアのかなり南方に位置する港町だが、南方交易ではソーリアの最大の商売敵である。しかしレスギン砦の影響か、今までミネアを経由していた交易品の多くはソーリアを経由することとなり、ソーリアの市場は活況を呈していた。ソロスとしては、砦がこのままならば取りあえずは言うことがないのである。
 しかしこのレスギン砦に対する攻撃がより大きな戦火を呼び、グロクスティアに大手を振って介入するに足る口実を与える可能性も大いにある。グロクスティアにラタール全域を押さえられることだけは、国益から言っても面子から言っても絶対に避けなければならない。ソロスとしてはどちらにせよ、何らかの手を打つ必要があった。
 だが、ほとんど難癖に近いとはいえ一応出兵依頼に答える形を取ってラタールを浸食しているグロクスティアに比べ、ソーリアには大儀も名分もない。加えて近年は貴族の対立・内訌もあって、ソーリア国内が安定しているとは言い難い。ラタールに戦火の火種が臭いだし、それが自国の将来を大きく左右することが為政者達には明かでも、民衆をして兵たらしむるだけの理由も余裕もなかった。実際、国を挙げて派兵を決められるような事態はロカールが戦場となったときだけであろし、そうなったときすでにソロスのロカール介入などは笑い話のたねにもならないだろう。ソーリアの指導者たちは強行派兵か外交操作か揉めに揉めたた挙げ句、たった一つにおいて妥協に達した。密偵を数名派遣し情報を再検討する。つまりは『棚上げ』と同じであった。
 この決定をただの棚上げとは受け取らなかった人物が一人いた。それはソロスの宰相・ラタス伯爵レイモン=ロゴス卿その人だった。この黒衣の宰相は狐の心と獅子の威厳を持った男だったが、それでもこれは十分すぎる難題だった。万の兵を持ってするべき戦略を十指に満たない数で成し遂げるとは言わないまでも、わずかの間でロカールの現状を把握しその情勢をソロスにとって不利にならないように進めなければならない。それ故、密偵の人選が全てを決める。一流の密偵を多く飼うこの宰相にも、それだけの頭脳と行動力の持ち主は思い浮かばなかった。いや、いると言えばいる。それも二人。ただしひどく若い。頭の中で思いついた無謀とも思える人選を、ラタス伯はゆっくりと反芻した。その心に浮かんだのはある書物の一説だった。
密偵は練達無名をもって上とし、貴種不覚をもって至上とす。』密偵をする必要のない身分のものこそが最も有用な密偵となりうる。だが、当人が密偵であることを知っていてはならない。古の格言を現実のものとするべく、宰相はある近衛騎士と公爵の子息に白羽の矢を立てた。
「ソロスの十年先を担うことになるのがどちらか、試すにはいい機会かもしれん。」
宰相は一人笑みを漏らした。

レスギンの獅子(2)

 マルクが王都ソーリアを旅立ったのは、年が明け、新年の大聖祭で都市中が賑わっている最中だった。黒衣の宰相・ラタス伯の命令は謎めいたもので、ラタールである人物に内密に接触し一通の封書を手渡せというものだった。宰相の名高い『眠り獅子』が鑞に刻印された巻物と王国勅使の割り符を渡されたマルクは、居心地の悪さを十分に堪能した。一つには年始の馬鹿騒ぎの最中に呼び出されたせいでひどい身なり(その日のマルクはひどく酒臭かった)だったせいだが、なによりもこの宰相こそが、彼に近衛騎士という苦労の割に報われることの少ない役割を与え、ある女性に彼が寄せた思いを断ち切らせた張本人だったからだ。もっとも、どの理由も多分に逆恨めいていることは彼自身重々承知していたが、それを納得できるほど大人でもなかった。

 そもそも、偶然と悪意の産物である半年前の反乱未遂事件に関わってしまったことが、マルクの不幸の始まりだったと言っていい。その事件で彼は、七年を共に過ごした親友を自らの手に掛け、淡い思いを抱いていた女性が決して手の届かない相手なのだということを思い知った。権力という巨大な怪物の前で自分がいかに無力であるか、現実という動かし難い物の前で自分がいかに夢想家だったかを知り、大人になることの意味を悟って醒めた感慨を覚えた。
 ソーリアを揺るがしかねなかった反乱を未然に防いだとして、マルクは近衛騎士に叙勲された。これはこれまで以上に厄介事に巻き込まれることを意味していたから、マルクは決して喜びはしなかった。たしかに名誉なことではあった。若干十六歳の学院の徒弟が近衛騎士に叙勲されるのは、決して日常的にあり得ない名誉だ。ましてや血統的に3/4までグラム人である彼には望むべくもない出世だと言えよう。
 この抜擢は多くの憶測と嫉妬を呼んだ。これは当然と言えた。ソーリア王立学院はソーリアの文化・学問の最高学府であるが、貴族や有力者が自分達の子弟や推薦する少年達を送り込み、将来の人材を育てるために鍛える教育機関でもある。ただ、開明的なソロス南部の貴族やロカール街道沿いの利に聡い有力者に比べてソロス北部の貴族は保守懐古の風潮が強く、学院自体に賛同している者が少ない。彼らが学院出身者に向ける眼差しが暖かいわけがなかった。また、王立学院を実際に運営しているのはリュムナサール十七導師会、平たく言えば魔導士の協会であった。この協会は大陸の西方で最も力を持つ団体と言ってよかったが、都市部はともかく地方では未だに魔導士も魔術師も十把ひとからげに忌避されている。マルクはこの学院の徒弟であったが、同時に十七導師会の徒弟でもあった。これは言ってみれば、初めて騎士になった魔導士と言うことになる。マルク自身は、ただでさえ半人前の魔導士なのに騎士など出来るわけがないと思っていたが、周囲の目はそうではなかった。
 ソロスの真珠の宮廷では、伝統的に派閥争いが絶えない。一番大きな対立はソリス=アロウナつまり南部ソロスと、ソリス=アルカペスすなわち北部ソロスの相克であるが、そのほかにも利権や民族などから小さな派閥がいくつもある。だが、マルクはその中で孤立していた。マルクの父はロカールとソロスの境に領地を持つ地主だが爵位のない騎士階級でしかないし、人種的に偏見をもたれやすい竜の民グラム人である。母はソーリアの富豪であるエクシンヌ家の係累だが、祖母が駆け落ちして出来た私生児という経緯からそちらとも縁遠い。マルクが学院に入ったのは七年前の十歳の時でそれ以来宮廷に出入りする機会はあったが、親しくなったのは王家の人々と学院での友人達だけであった。周囲の人々から見れば、魔導士の弟子だという得体の知れないグラム人の少年が王家の人々と親しくしている事自体、面子や感情から言っても甚だ面白くないことこの上ない。加えてその少年が同年代の誰よりも早く近衛騎士になったのだ。それは目障りを通り越して危険であるとさえ映った。

 図らずも、ソーリアの真珠色の王宮で最も年若い騎士になってしまってから、マルクには気の休まる時がなかった。近衛騎士の務めは王宮の警護、市内巡回、王族の警護、式典の警備などだったが、マルクはおそらくは意図的に王族の警護に回された。王族の警護というと晴れがましく聞こえるが、激務ではないにしろ心理的疲労がたまる仕事だった。貴人の前では欠伸一つ出来ない。それに、宮廷の花・三人の王女に会うことが多かった。これは役得ではなくて拷問だった。マルクが思いを寄せても決して叶えられない相手とは、第二王女イリリアに他ならなかったからだ。
 イリリアはソロスのじゃじゃ馬というありがたくない呼び名を奉られていたが、それは彼女の正義感や行動力の結果に過ぎない。マルクと彼女はこの七年を兄妹のように一緒に過ごした。恋情とは知らず知らずのうちに育ってしまうものなのだろうか。出会ってから六年を経て、二人が大人への階段をともに登っていくのも終わりに近づいたときに、マルクはイリリアへの親しみが愛しさに変わっているのに気付いた。だが、その気持ちを認識した時には、もうすでにそれが叶わないものだと十分に理解できるほど世に明るくなりすぎていた。宰相が告げた彼女の婚約者のことも結局はただのきっかけに過ぎない。マルクはこの気持ちを殺してしまわなくてはならない。親しげに話しかけるイリリアを強いて冷たくあしらってはみたものの、それはイリリアとマルク自身の心を傷つけただけで、そのあってはならない感情が無くなるはずもなかった。
 宮廷内で彼のライバルと目されていたマラケシュ公の末子・ロクエルの突然の出奔も大きかった。人のうわさにはマルクの近衛叙勲を憤激しての事だという。マラケシュ公爵はソリス=アロウナ最大の実力者であるが、その末子は父の実力抜きでも十分に一国を切り回せるであろう才能の持ち主だった。学院の後援者の息子としては奇妙なことに彼は学院に入らなかったのでさして親しくはならなかったものの、幾度か言葉を交わしたこともあったし彼の言動はよく耳に入った。彼は掛け値なしの天才で、かつ紛れもない変人だった。変人と言って語弊があれば、生粋の貴族という言葉でもいいだろう。年少時から彼の言動は風評に上ってはいたが宮廷に出入りするようになってからの逸話も多く、軍事には鋭い意見を発しマルクと同じ年齢にも関わらず歯に衣着せぬ斟酌のないもの言いで、相手がどんな立場であろうと妄言を許さなかった。決して人好きがするとは言えないロクエルであったが、彼の才能や性格をうらやんでいたマルクは彼の出奔を惜しんだ。もっとも宮廷が苦手な彼としては、自分より目立つ存在が居なくって格好の矢避けがなくなったと言う意味も大いにあったが。

 ともかく、小ソロス・ラテルノの相続人にして近衛騎士、マルク=レヴィス=グラムソーティス卿という称号は、それだけですでに十七歳の小僧にとって荷が重い役回りであった。騎士としての務めさえ充分に果たしていると言えない彼をわざわざ呼びだし密命を与える以上、何らかの裏がないはずがない。宰相が偽装としてラタールへ向かう隊商の護衛をするよう手配をしていたことからも、それがただの邪推ではないと確信できた。ただ、それを問いただすことなど残念ながら出来はしないし、たとえ尋ねたところで本音が返って来はしない。不承不承任務を拝命し宰相の前を早々に退散したマルクは、翌日には準備を整えて出立した。隊商の一行と従者のラドビクが、彼のあまりの手早さに目を白黒させて泡を吹かんばかりだったことだけが、愉快と言えば愉快だった。

 旅程は至極順調だった。一月中旬から二月にかけてのロカール高地の気候のひどさを考えると、ロカール街道を四週間とすこしで踏破したのは半ば奇跡的といってもいい。彼自身は旅慣れているし、ロカール街道は勝手知ったる道である。にもかかわらず、この旅はマルクにとって思いがけなく忘れがたいものとなった。雪の舞い寄せるロカールの寒気はお世辞にも嬉しくはなかったが、同行していた商人の一行は随分と抜かりなく用意していたらしく、ほとんどの行程で暖かい夜を過ごせた。ラドビクと二人だったならば、惨めに凍えた近衛騎士の主従が心まで氷漬けになってラタールにたどり着いたに違いない。
 同行者の一行は芸達者揃いだった。ナイフ使いの軽業の達人、容姿は十人並みながら踊り出すと目にもあでやかに舞う踊り子、人形使いの美しい双子の姉妹、虚構を真実にすり替える語り部の老人、年老いてなお美声を誇るかつての歌姫、槍斧使いの屈強の戦士。二十人に満たない一行にこれだけの芸の持ち主が揃うことはまず無いだろう。マルクは彼らとよく話し、杯を交わし、歌い、踊った。もし近衛騎士という歯止めがなかったら、マルクも本業の技をもってとっておきの芸の一つや二つしていたことだろう。一行の主である豪商も豪放磊落な人物で信用できた。彼はマルクとラドビクを息子のように扱ってくれ、娘を嫁にいらないかなどと冗談が出たことさえあった。
 ラタールのかつての首府・トラヴィスに到着したときには、別れがひどく辛かった。彼ら一行は此処からまだ先へ行かねばならないという。その頃にはもう彼らがただの隊商の一行ではなく、おそらくは黒の宰相配下の密偵達であることは見当が付いていたが、それでもなお、いや、それだからこそ別れが惜しかった。彼らの幾人かは、再びソーリアに戻ることはないだろうし、マルクと再会することなどまずあり得ない。ラドビクは半泣きで再会を約束していたが、マルクには戦神・ブルグラントの祝福を祈るのが精一杯だった。おそらくは彼らもその意味を理解したのだろう、再会を約することはしなかった。
 マルクとラドビクは、おそらくはかりそめに与えられたに違いない、本来の使命を果たすべくトラヴィスに逗留した。密書を渡すべき相手は、トラヴィスに来ているはずの、イーリスの都市国家・ポントゥの密使だった。マルクとラドビクは数日後にはその密使に会うことが出来た。

レスギンの獅子(3)

 密使はマルクと幾分も年齢の違わない、若い女性だった。マルク自身も勅使などと言う堅苦しい役目が似合うとは思えなかったが、ルミエラ=フィエスガリアンテと名乗ったこの美しい女性ほど密使と言う無粋な言葉が似合わない人はいなかった。姓名を聞いて、マルクは風説を思い出した。ポントゥには誇りが二つある。一つは地上でもっとも美しい白亜の街並み。もう一つは、麗しの公女パラ=ロノ。
 パラ=ロノとはイーリス語で『至上の方』という意味だ。ソロス語で言うと『ミエス・シュア』となるこの言葉は、皇帝や国王の第一夫人にしか使われない尊称だ。公女の姿を垣間みたある詩人がその麗しく気高い姿を詩って思わず使ったのがはじまりとなって、いまや青銅海一帯ではポントゥ大公の公女その人だけを指す言葉となっているらしい。パラ=ロノに求婚する者は後を絶たず、その誰一人として彼女の肯定を得られた者はいないという。
 密書を静かに読み進むポントゥ大公の公女を観察しながら、マルクは心の中でうなずいた。艶やかではなく穏やかな美貌は、もし叶うならその笑みを独占したいと世の男達に思わせるに違いない。マルクもまた一人の男子として彼女に心を奪われてもおかしくはなかったが、彼は自分自身をいさめた。例え決して叶わない望みと知っていても、マルクの心は未だにただ一人の女性に囚われたままだった。
「ソーティス卿、お加減でも悪いのですか。」
ルミエラがそう尋ねるまで、マルクは自分が黙想にふけっていたことに気がつかなかった。彼らしくもないことだった。
「いえ、失礼いたしました。お噂には聞いていたのですが、誠に麗しきご様子にて、我を忘れておりました。流説が真実を伝えた試しは、一度とて無いようです。」
「お上手ですわね。」
彼女は鈴のような声で、くすくすと笑った。朗らかなその様子には、一片の嘘も感じられない。
「さて、書状は確かにお預かりいたしました。父も宰相閣下からのお申し出には、熟慮の上回答差し上げることと思います。」
「はい。よろしくご検討下さい。」
黒衣の宰相の申し出が何であるかはマルクの預かり知るところではなかったが、ともあれ肩の荷を降ろすことは出来た。
「ところで、ソーティス卿。すぐにソロスへとご帰還なさるのですか。」
「ええ。その心積もりです。」
ソーリアに帰り着くことを思うとマルクの心は躍った。今から帰路に着けば、潮風に甘い花の薫りが漂いはじめる頃には戻れるだろう。しかし、そんなマルクの郷愁を哀れむように、麗しき人は続けた。
「それでは、一つお耳に入れておかなければならないことがございます。」
「は。なんでしょうか。」
「今朝入った情報なのですが、オスカ峠が通行できなくなったとのことです。」
「なんですって!?」
あまりのことに大きなを上げて、マルクは席から立ち上がりかけた。オスカ峠はロカール街道最大の要衝である。大グラム山脈を抜ける峠は幾つかあるが、軍旅の移動に耐えられる街道として十分に整備されている峠は他にない。この街道を生命線と考えているソーリア王国が自ら峠を閉ざすことはあり得ない。だとすれば・・・。
「グロクスティアが。」
「そのようです。帝国の軍団が、峠の麓で陣営を布いているという情報があります。私の推測ですが、おそらくはマルミナスの方でも同様の動きが起こっているかと思います。ルクソールもエルヴァも通れないと見て良いと思います。」
申し訳なさそうに続けるルミエラの様子に、マルクも腰を下ろした。この人は自らの咎でもあるまいに、まるで他人の他国の騎士に心を砕いている。そして、マルクとほぼ同様の推測を導き出した明晰な知性と教養。的確なな情勢の判断がそのまま地理に結びついている。この公女は、ただ麗しいだけの人ではない。マルクは、我知らず先を尋ねていた。
「狙いは何処でしょう。ロカールか、それともラタールか。」
「そのどちらだとしても、峠の封鎖は理にかなっていますね。七星の王冠をいただく御方にとって、もっとも気にかけるべきは西方の獅子ですから。」
公女は悲しげな様子で答えた。七星の冠を戴くもの、すなわちグロクスティア皇帝。彼の飽くなき覇業こそがラタールの今日の有り様を作り出している。それはそのままイーリスの明日の姿につながるだろう。それが分かっているからといって、彼女に何が出来ようか。情勢を見る目が自らに利するとは限らない。ただ心痛を増やすだけのこともある。立場の違いはあっても、マルクには彼女の心情が少なからず理解できた。
「帝国の動向はともかくとして、ソーティス卿。いずれにしろあなた方はすぐに御帰国にはなれないでしょう。」
マルクは嘆息した。彼女はあくまで正しい。
「どうもそのようですね。北のグロクスティアが通れないとなると、マイソミアを回っていくしかありません。ソーリアに着く頃には、春を過ぎているでしょう。」
ソロスの春は美しい。今年は王宮広場の咲き誇るサクラが見れないかと思うと、マルクは切なくなった。
「ソーティス卿。」
「はい。」
ルミエラは気遣わしげにマルクを見た。
「もしよろしければ、私どもとともに、ポントゥにいらっしゃいませんか。ラタール南部やマイソミアも安定しているとは言えません。それに、マイソミア砂漠は大変な難路だと聞いています。失礼ですけれど、お二人は・・・。」
「若すぎますか?」
マルクは微笑んで答えた。
「侮辱するつもりはありませんの。ただ、すでに天険を越えられてお疲れかと思いますし、情勢が落ちつくまでしばらく様子を見られてはいかがかと。一緒に来ていただければ、こちらも遠来のお客様をおもてなし出来ます。父も喜ぶかと。」
「はあ。」
生返事をしてマルクは黙考した。確かに、急いで帰国する必要があるわけではない。マイソミアを何度か横断したこともあるので、彼一人ならば砂漠はさしたる問題でもないが、今回は預かりものの同行者がいる。何よりも、この才色兼備の公女ともっと言葉を交わしてみたかったし、文明の地イーリスでの滞在はあまりにも魅力的だ。
「マルクさん、何を黙っているんですか。少しは訳して下さいよ。」
ラドビクが横で囁いた。彼は、イーリス語をきちんと理解できない。道中マルクが教えたのでラタール語はそこそこ通じるるのだが、構文が非常に良く似ているこの二つの言語は実用では別物だ。マルクはルミエラに一礼してから、ソロス語でラドビクに事情を説明した。貴人の前で内緒話をするようなものだから本来なら失礼に当たる。だが、彼女がソロス語の教育も受けていることは間違いない。
「従者の方にも関係のあるお話ですから、ソロス語の方がよろしかったようですね。」
彼が説明を終えたあとにルミエラが見せた苦笑を見て、マルクはこの公女に心惹かれている自分を正直に認めた。
「マルクさん。せっかくのお誘いですよ。お受けしなくては失礼です。」
ラトビクは頬を赤らめながら囁いた。公女を見ては赤くなって俯くラドビクを見て、揺れていたマルクの心が決まった。
「公女殿下、失礼は承知の上ですが辞退させていただきます。どうかお許し下さい。」
彼はラドビクにも分かるよう、わざとソロス語で言った。ラドビクは、公女がいなければ今にも喰ってかかって来そうな様子だ。
「そうですか。残念ですわ。」
公女の親切心を無にするのは辛かった。もうこんな機会は決してないだろうと思うと、胸の端で後悔がうずいた。
「我々も国王陛下に仕える者の端くれです。国が危機に陥る可能性がある以上、我が身の事ばかり考えているわけにもまいりません。情報を集めながら南回りで帰国します。」
「そうですわね。では、せめて路銀と馬だけでもお受け取りになって下さい。あって困るものでもありませんわ。」
ルミエラはうなずいて、心配そうに尋ねた。
「ありがたく頂戴いたします。ご配慮、感謝いたします。」
マルクはラドビクを従えて、公女の前を辞した。