柳生新次郎・幻界行(1)

草原を風が吹き渡る。
見渡す限り一面に丈の高い草が生い茂り、その草色の海をただひたすらに続く街道。すれ違う者とて希な交易路を、一人の男がのんびりと馬の背に揺られていた。その馬の足下を一頭の犬と思しき影が付き従う。
その向かう先は西。

馬は恐ろしく大柄な青毛。馬体は標準の二回りは大きい。太く頑丈な足は大地を踏みつぶすかのように歩みを進める。真っ黒い毛並みに漆黒のたてがみ。そのたてがみから覗く眼は、炯々と周囲を睨み付けている。まるで夜の闇から生まれた魔獣のような生き物だ。
その背に据えられた頑丈な鞍に跨った人物もまた、常識はずれに大きい。
人馬の均整は非常に良く、遠目にはごく普通の騎馬武者に見えるが、馬の大きさに比例して乗り手の大きさもまた大きいだけのことだ。身の丈2mを越える長身を、鍛え抜かれた筋肉が覆っている。巨漢というには幾分細身だが、その全身にはあふれ出す覇気がある。金と赤で彩なされた派手な着衣の上には、存外に端正な顔が載っている。眠たげな眼といい加減に切られたザンバラの黒髪。浅黒く日焼けした肌には大小様々な傷跡が残る。

だらしなく片膝を鞍の前輪に引っかけ、こくりこくりと船を漕ぐ姿は長閑で、いかにも雄大な風景に合った姿だが、腰に下げたひどく大振りな太刀と肩にもたせかけた長大な槍が、この男が長閑どころか殺伐とした生を生きている事を雄弁に物語っていた。
しかも、この男の武装はそれだけではない。鞍袋からは金属製の鎧が立てる耳障りな音が響いているし、その膝元には使い込まれて黒光りのする銃が横たわっている。

馬の足下を並んで歩く四つ足の影もまた、ただの犬ではない。大人の胸元までありそうな体高を硬そうな黒い毛に包んだそれは、並の狼よりも大柄で凶悪な面相をしていた。太く長い尾を揺らして歩くその姿は、虎や獅子などの大型肉食獣と較べても遜色がない。馬が闇夜の魔獣ならば、この犬もまた地獄の番犬もかくやという姿である。

派手で危険な出で立ちの騎手と、それを背にした闇から生まれたような軍馬、それに従う悪夢の産み出した魔犬。恐ろしげな一行は、ゆったりと街道を進んでいた。まるで、彼らの行く手を阻む者などあり得ないとばかりに悠々と。


日が落ち始めた昼下がり。
馬上での居眠りに飽きたのか、男は鞍袋から物ぐさそうにのたくさと革の水筒を取り出すと、栓を抜いて中身を飲み始めた。濃い紫色の液体をグイグイと。
「グビ………ふぅ。やっぱり起き抜けの一杯は目覚め爽快だな。」
すでに影が伸び始める時刻も気にせずに、葡萄酒を嚥下した男は呑気な台詞を吐いた。その声に、乗馬は不満げな鼻息を漏らす。
「いい加減にせぬか。そんなだらけた姿の主を守らなければならん我が身が恨めしくなってくるであろうが。」
馬の横から深みのある女性の声が響く。馬上の男を見上げた獣が、その喉から吐き捨てるように発した声だった。黒犬の口から流れる忌々しげなその声は、いささか古風な西方語であった。
「そうは言うけどな。どうにも道が長すぎて退屈なんだよ。そもそも、"草原の道"にしようって言ったのはお前だろうが。"海の道"にしとけばこんなに退屈しなかったんだ。マゴラから船で行けばアデルまで半月もあれば着くんだし、レクセベルグまで乗り換えの船だってある。港町で旨いものだって食えたのによぉ。なんでこんな道をダラダラと歩かにゃならんのだ。」
ぶつぶつと反論する男。
「船頭を脅して船に無理矢理乗り込み、港町毎に賞金稼ぎの死体の山を築いて行く気か。わたしは御免被る。愚にも付かぬ人間の肉など食らいたくもないわ。加えて言うなら、歩いているのは貴様ではなくエクリプスであろうが。」
黒犬が言い返すと、同意するように黒馬が嘶いた。
「別にいいだろ、アホが何人死んだって。世界には人が溢れてることだし、分別のないヤツが幾らか減った方が世のため人のためってもんだ。お前だって、道徳がどうとか言うつもりはないんだろ。なぁ、"アンリ"。」
男が名を呼ぶと、黒犬は鼻にしわを寄せて顔をしかめた。声だけでなく仕草も妙に人間がかっている。
「当たり前だ。私が道徳など説くはずも無かろう。馬鹿にするでない。」
さらに言い募ろうとする黒犬、"アンリ"は、急に首を伸ばして耳を立てた。
「どうした。」
「……騎士が三騎。西からだ。」
黒犬が進行方向を首で示す。
男が手をかざして道の彼方を見やると、地平線上に細かい点がポツリと見えた。かすかに動いている様子もあるが、人なのか馬なのか馬車なのかさえ見分けが付かなかった。
「ぜんぜんわかんね。まぁ、お前が三騎つったら三騎なんだろな。」
興味なさげにつぶやいた男は、そのまま黒馬に揺られたまま先へと進んだ。
「鎧も着込んおる。気を抜かぬが良かろう。二時間もすれば行き会うであろうな。」
黒犬も忠告しながらその後に続いた。


「まず、その銃を下ろしてくれないか。」
引きつった笑顔で、その騎士は言った。
「そこから動かずに話せ。口上くらいは聞いてやる。」
黒馬の上で男が言う。銃を構えて先頭の騎士を制しながら、乾いた声を出している。
「撃たないでくれ、頼むから。」
「用件次第だな。本来なら聖堂騎士なんざ見つけ次第駆除するんだが、今日は天気が良くてオレの機嫌もなかなか悪くない。用向き次第で生かしておいてやらんこともない。」
揶揄するような笑みを浮かべると、男は尊大な口調で言いはなった。
レノバ卿!やはりこの男は誅するべきです。」
向かって左側の騎士が、面頬の下からくぐもった声で先頭の騎士に進言する。その手には象眼で飾られたクロスボウが握られ、黒馬の男に狙いを定めていた。声は若く涼やかなソプラノ。小柄でほっそりとした体を騎士鎧に包んだその騎士は女性のようだ。
「そこの女。動かない方がいいぜ。腕を食いちぎられるぞ。」
黒馬の男が女騎士の真横に目配せをする。三人の騎士達がそこに目を向け、驚きに身を固くした。そこには、草むらから音もなく這い出た巨大な黒犬が、女騎士の腕を見据えて身を屈めていた。彼らはこの男とその使役獣についてそれなりの情報を持っていた。この犬が少なからぬ数の同輩達を無惨に解体してきたことも。
「で。オレもそんなに暇じゃないし、忍耐力がある方でもない。さっさと口を開けよ聖堂騎士。」
黒馬の男が急かすと、先頭の騎士はあわてて話し始めた。
「私はランタルラントの聖堂騎士でタイタス・レノバと申す。アルタイル枢機卿たるロンディニヨン猊下から、貴公に同行をお願いするよう言われている。」
「同行、か?連行の間違いじゃないのか、え?」
黒馬の男は鼻で笑うように反駁する。
「確かに、本来であれば連行するか討ち取るのが我ら聖堂騎士の仕事ではあるがね。出来うることかどうかはともかく。少なくとも、我々が貴公に真っ当な手段で勝てるなどとは、最初から思っておらんよ。」
「随分物わかりが良いんだな。聖堂騎士にしちゃ珍しい。」
レノバ卿!!それは神の御力への疑いですか!?」
横の女騎士が、再び激した調子で口を挟む。
「いやいやランバナス卿、私は神の御力を一度として疑ったことなどありませんよ。ただ、天なる神の哀れなしもべにすぎない自分の力量をわきまえているだけです。」
「……それならば結構ですが。」
先頭の騎士、タイタスが困惑した表情で返すと、女騎士は憤懣に満ちた声を漏らした。
「いささか見解の不一致がございましてね。お見苦しいところをお見せしました。」
タイタスは、弱々しい笑みを浮かべて黒馬の男に向き直った。
「まぁ、あんたらの内情なんざオレの知ったことではないが。で、枢機卿猊下とやらが、全教会に回状を回されているお尋ね者のオレに、わざわざ馬鹿丁寧に『同行をお願いする』理由も聞いておこうじゃないか。くそったれの教皇に知れたら破門されるぜ、そのオッサン。」
黒馬の男が嘲るように言うと、また女騎士が動こうとするが、タイタスはまぁまぁとそれを制した。
「実は、アルタイルで困った事態が持ち上がっていましてね。どうも、それを解決できそうなのは貴公だけのようでしてな。ま、簡単に言うと、悪魔を一匹殺してほしいのです。」
「『神の敵』を『呪われし者』に片付けさせるってワケか。至聖教会もなかなかあくどいことを考えるもんじゃないかね。」
「否定はしませんがね。個人的には枢機卿猊下の慧眼には感服しますよ。我々だけで対処したら、死人がどれだけ出るか判りませんのでね。餅は餅屋、悪魔は悪魔使いに。実に合理的だ。」
つかみ所のない表情で自らの内情を平然と口にする聖堂騎士
「まぁ、あんたらに取っちゃ確かに合理的なんだろうがな。だが、オレにはちっとも得るところがない気がするんだがね。」
つまらなそうに応対する黒馬の男。
「ロンディニヨン猊下の統べる東方五教区での指名手配を停止する、というのはあまり魅力的じゃありませんか?」
「どうせなら回状自体を撤回してくれよ。うるさいハエが減るのは歓迎するが、ちょっと報酬がチャチじゃねぇか。」
「ご不満なら、猊下と交渉してくださいよ。私はあなたに一緒に来て貰うことだけがお仕事でしてね。交渉権をいただいている訳じゃありませんので。」
肩をすくめてみせる聖堂騎士に、黒馬の男は銃を鞍袋へと仕舞いながらため息をついた。
「……いいだろう。とりあえず猊下とやらの抹香臭いツラを拝んでやるとするか。」
「そう言ってくださると思っていましたよ。あなたは存外に話の通じる人だと聞いていましたので。」
聖堂騎士は、ホッとした表情で肩の力を抜いた。
「あんた、なかなかいい性格してるぜ。」
「お褒めにあずかって光栄ですよ。"黒騎士"シンジロウ殿。」
先導し始める聖堂騎士に従って、黒馬の男こと柳生新次郎巌勝は再び馬を進めた。