ジルフィンの指輪(2)

 私の危惧に違わず、彼らは追手を掛けた。殆ど休みもなく我々は逃走を続け、敵の斥候を何度か倒したが、二日目の夕刻、道もない岩場で新たな斥候に見つかった時、私は覚悟を決めた。私も馬も、そして何よりもイリリアが体力の限界にきていた。イリリアは、じゃじゃ馬で、活発な娘だったが、とてもこれ以上の逃走に耐えられるとは思えなかった。私は、まず彼女を先に行かせ、馬を返して三騎の斥候と戦った。彼らは強く、私は苦戦したが、ともかく二人を傷つけた。しかし、逃げる彼らを追う体力は、もう私には残っていなかった。さらに追い打ちを掛けるように、イリリアの待つ所まで辿り着いたとき、私の馬は潰れてしまった。あの逃げた斥候は、必ずや援兵を連れて戻ってくるに違いない。希望の無くなりかけたそんな時だった。イリリアが、その洞穴を見つけたのは。
 洞穴は、その岩場の奥の、切り立った崖の半ばにあった。私と彼女は、身を休める場所を求めて、薄雪の中、岩場を登った。

 その洞穴は、実に不思議な場所だった。身も縮む思いでいた外の冷気とは無関係に、中はほのかに暖かく、人の手が加えられたと一目で分かる壁は、多様な紋様に彩られていた。少し入ったその奥には、一枚の金属の扉が待ち受けていた。イリリアは、洞窟の入り口でこの一種神秘的な扉を見つめ、不安気に立っていたが、この洞窟をでる気はないようだった。外套の裾を、所在無くくつろげるその仕草が、見ていて痛々しかった。「私は、この扉を調べます。危険はないようですから、座って休んで下さい。」こう告げると、彼女は少しほっとして腰を下ろした。
 たとえ、この扉がなんであっても、追いつめられた私たちには関係の無い事だったが、私の生来の好奇心はこの期に及んでも衰えなかった。私は、先ほどまでこの洞窟の主であった、扉と向かい合った。
 
 扉は、銀の鋳造らしかったが、その紋様から判断するところの年代から鑑みると、朽ち果てていないのは異様だった。その両開きの門扉には、神秘の守護者エリイスとニヌスが象られ、その中央、二柱の精霊の手にはひとつの輪が掲げられていた。その下には、左右の扉にまたがって鉛の封印が施され、上代エディアの神性文字で、「時至らずして、神秘に遭う事叶わじ」と刻まれていた。
 私は、時ならず遭遇したこの過去からの伝文に興奮した。この扉が、何をその奥に隠しているにせよ、これが、偉大なる神代の昔から秘されてきた物に違いない。もし時間をかけてこの扉の事を調べれば………
 だが、興奮が冷めるのも早かった。そんな時間的余裕どころか、自らの未来さえ定かではなかった。私は落胆して腰を下ろし、イリリアには、ここには危険がない旨だけを伝えた。

 イリリアと私には、たとえ、これからどうなるにしても、休養が必要だった。二人で最後の食物を分け合い、身を寄せ合った。
「ねえ、マルク。あの時の事覚えてる?ほら、二人で都を逃げ出したときの事。」イリリアは、試練にやつれてもなお美しい笑顔で聞いた。その笑顔は、今にも壊れそうだった。
「ええ、簡単には忘れられませんよ。」
私は答えた。
「でも、追放されたのは私で、あなたは無理矢理ついてきたんじゃないですか。」私の台詞を聞くと、彼女はくすくす笑った。
「わたしはね、あなたが学院から追い出されたって聞いて、寂しいんじゃないかと思ってついて行ってあげたのよ。父上も、あなたの事許してあげてって言っても、学院の事だからって聞いてくれないし。」
「おかげで私は、あなたをさらった事になって、あちこち逃げ回ったんですよ。」私が言うと、彼女はうつむいた。彼女は黙ってしまった。
「イリリア?」
私がのぞき込むと、彼女は静かに嗚咽していた。
「わたし、わたし、人に迷惑かけっぱなしね。モーガンも、シアナも、ロイスも死んでしまったし、あなただってわたしに関わらなければこんな目に……」
私は、彼女にかける言葉を見つけられなかった。私は、何も言えずに彼女の涙を指で拭った。
「何があっても、私はあなたの側にいます。」
私が絞り出せたのは、たったこれだけだった。

 この、ほんの一時の休憩の間に私たちは、なるべく体力を回復しなければならなかった。洞窟の入り口から、月の柔らかな光が差し込んでいた。できれば、彼女に睡眠をとってほしかったが、彼女は、疲労のせいか寝つけないようだった。
「マルク、何か話を聞かせて。」
彼女は、落ちついた声で言った。私たちは、二人で話をして夜を明かす事が間々在った。私は、この後の事を悲観していたので、最後にそうするのもよかろうと感じた。
「そう……、何の話をしましょうか。」
イリリアは、小首をかしげた。
「ん…、終わりの無い話がいいな。」
「そうですね……」
私は考えた。心に、まだ彼女に話していないエピソードが浮かんだ。私は、膝に抱えた愛剣に首を預けると、話を始めた。
「ジルフィンの指輪、というのを知っていますか。」
彼女はかぶりを振った。
「我々の世界が作られたときの事は、知っていますか。」
「ええ、エルンの神々が、七日七晩かかって作り上げたんでしょう。」
「神話ではそういう事になっていますが、違う話も在るんです。」
イリリアは、不思議そうに私を見た。
「私も、ある人から聞いたんですよ。」
「あるひとって?」
「その話を、これからしましょう。」
イリリアは、興味深げに足を抱えた。