ジルフィンの指輪(4)

 イリリアは、息を詰めて聞いていたのか、はーっと長いため息をもらした。
「いい話し………なのかしら。」
彼女の言い様に、私は自嘲気味に肩をすくめた。
「私にも、どうなのか分かりません。」
「でもね、」
イリリアは、私の手を握って、私の目を、震える瞳で見つめた。
「彼は言ったわ。決して諦めないって。私たちも、絶望だけはしてはいけないわ。」私は、自分を恥じた。彼女は、これほど傷つき、悲劇に晒されても、私の事を信じているのだ。彼女がいる限り、生きている限り、諦めてはならない。私は、彼女を抱きしめた。

 彼らは、朝もやの中をやってきた。馬の蹄の音が聞こえると、私は洞穴の前の岩棚に出た。私は幾分、力を取り戻していた。彼らの囲みを破り、逃げる事が出きれば。だが、それも儚い望みに終わった。岩場に進んでくる彼らの数は、三十数騎に及んだ。私は、彼女のために死ぬ覚悟を決めた。
 彼らの中から、黒衣に身を包んだ神官が前に出た。
「マルク=ソーティスか。学院導師補の。騎士位を許された、ソーティス家の者か。」
彼は、私の名を呼ばわった。私は、肯定の意味でうなずいた。
「なるほど、よく逃げるわけだ。学院を追放された事もあるそうだからな。」
私は、その挑発を聞いていなかった。この場を切り抜け、少しでも優位に立つためには、魔術に頼る他はない。私は詠唱を始めた。
「ディグス・マルナアウス・ソムナス・イル・ハイナス・ギオルゲ………」
「いかん、魔術を使う気だ、弓を、弓で射よ!」
私の魔術が完成するのと、矢が私の右腕に突き刺さるのと、ほぼ同時だった。私の解き放った妖魔が、下で暴れ始めた。私は激痛に耐えかね、岩棚の奥に身を隠した。
「マルク!」
イリリアは、私の右腕の矢を抜こうとしたが、私は、その手を振り払った。
「姫、よく聞いて下さい。下で、私の妖魔が暴れています。彼らはそちらに気を取られているはずです。あなたは、馬を見つけて逃げるんです。これを、」
私は、師匠に貰った護符を彼女に渡した。
「これを付けた者には、妖魔は襲ってきません。」
彼女は、私にすがりついてきた。
「あなたは、あなたはどうするの。」
私は、愛剣グラムを左腕で不器用に抜いた。
「あなたの援護をします。いいですね。」
彼女は嫌がったが、私は岩棚から彼女を連れて降りた。下は混乱に陥っていた。私は、近くにいた騎兵を突き落とし、彼女に手綱を掴ませた。
「さあ行って、速く!」
私は、私たちに気付いた兵士と戦いながら、彼女を馬の方に押しやった。
「だめよ!あなたを置いて行けない!」
だが、私は、彼女の相手をする暇がなかった。二人の兵士が私にきりかかってきた。私が彼らに苦戦している間も、彼女は行こうとしなかった。
「行け!行くんだ!私は後で行きます、速く!」
私は、力の限り戦ったが、劣勢は如何ともしがたかった。私は、後ろで蹄の音がするのを待ち、そして、救いが、それが神であろうと、妖魔であろうと、現れてくれる事を願った。このままでは、私が打ち倒されるのは時間の問題だった。最も、彼らに殺されなくても、あの妖魔を追い返す事が出来なければ、いずれにしろ、死はやってくる。
 私は、死の足音を聞いていた。剣の響き、彼我の怒号、妖魔の雄叫び、そして……そして、その全てが止んだ。私の前には、頽れた二人の兵士と、身を鋼に鎧った、一人の偉丈夫が立っていた。
「久しいな、マルク=レヴィス=グラムソーティス。魔道の徒よ。」
私は、目を疑った。目深に被ったフードから覗くその顔は、見粉う事無き金属のそれだった。
「エンデューク、あなたですね。」
彼は、変わる事の無い表情で私を見た。
「苦境に陥っているようだったのでね。彼らも追い返した方がよいのかね。」
彼は、古風にその金属の手を振り、妖魔と、神官の一行を指した。私は、力無くうなずいた。

 彼は、兵士の多くを追い返し、いくらかを倒した。また、私の呼びだした妖魔を、魔術を持ってその故郷たる深淵に追い返した。いろいろ学ぶ時間があったのだ、と、彼は事も無げに言った。彼の呪われた肉体は、彼らの武器では傷ひとつつかなかった。私とイリリアは、その間、所在無く立ち尽くしていた。だが、少なくとも、生命の危機はひとまず去った。私たちは、生きている事を、単純に喜んだ。
 ともかく、私は、再会を喜んだ。彼は、やはりまだ探索を続けていた。私は、彼にイリリアを紹介した。イリリアは、私の話を聞いていたせいか、それほど驚かなかった。いや、運命の偶然に驚いた。
 私は、すぐにもここを立ち去りたかったが、ひとつ確かめねばならない事があった。
「エンデューク、あなたは、あの洞窟に入った事がありますか。」
彼はかぶりを振った。精霊が掲げる神秘の輪。私は、彼の求める物が、あの中にこそ存在するのではないか、そう感じていた。
「あなたの求める物が、あの中にあるやもしれない。行きましょう。」
私たちは、彼を洞窟の中に誘った。

 扉を前にしたエンデュークは、感嘆の声をあげた。彼は、私に礼を言ったが、彼が私たちにしてくれた事を思えば、微々たる事だった。彼が、我々にあったのも偶然ならば、我々がこの洞窟に逃げ込んだのも、偶然という運命のめぐり合わせに違いない。
 私と彼は、扉の開け方について論じたが、彼の方が、私よりも博識だった。私は結局、彼に任せる事にした。私と彼が話している間、イリリアは緊張の糸が切れたのか、いろいろ不平を言っていた。おもに食べ物の事だったが、空腹なのは私も同じだ。イリリアは、エンデュークに、何か食べる物がないかと聞いたが、彼の答は、私は物を食べる必要がない、というにべもない物だった。私は、この時の事を今でも考える。空腹な者と、物を食べない者、どちらが幸せだろうか。
 ともかく、私は、彼が扉を開けるために使う魔術を見逃すまいとした。彼の術は、実に手際がよく、封印の複雑な呪文の糸を難なく解いていくその技は、芸術的とさえ言えた。この世に、彼ほどの技と感性を持つ者が何人いるであろうか。私は、自分の未熟さを感じた。
 彼が、その長い術を終えると、扉の封印は落ち葉のようにはがれ落ちると、洞穴の床に乾いた音を響かせた。彼が、その異形の手で門扉を押すと、銀の扉は、長の留守をしていた主人を迎えるように、音もなく開いた。その奥は、広い、広い洞窟がその口をあけていた。
 中に入った我々は、一様に感嘆の声をあげた。上下にスリ鉢状に広がったそのホールは、一面にエルンの神々の偉業を讃える絵が、幾柱もの神々の彫像が、そして、天上に昇った英雄達の彫像が飾られ、それが、数百本もの絶える事の無い蝋燭の明かりに照らされていた。そしてその部屋の中央には、円形の台座の上に、二人の精霊、エリイスとニヌスの像が置かれ、二柱の精霊は、ひとつの小さな輪を支えていた。
 私たちは、この場に踏み込む事を忘れていた。もっと荘厳な神殿にも、もっと巨大な建築物にも入った事はあるが、どちらも、神聖さという点で、この無名の洞窟には及ばなかった。私たちは気押されていたのだ。
 そして、エンデュークが一歩を踏み出し、私たちも、彼の重々しい足音につき従った。エンデュークは、途中、ひとつの英雄の像の前で立ち止まったが、後はまっすぐに、中央の台座に近づいた。彼は、その像の前に跪いた。
「我が妹、エリイスよ、ニヌスよ、私は、ついに罪を償う事が出来る。神々よ、この身に値せぬ慈悲を垂れ賜うた事を感謝いたします。」
その名を聞いたとき、私の中の憶測が、確信に変わった。
「エンデューク、あなたは、ロンダリアの王、ケルギナスなのではありませんか?」私の質問に、彼は振り返った。
「友よ、いつかは、知れる事だと思った。いかにも、私の名は、ケルギナスに他ならない。」
彼は、その異形の顔容を俯かせた。
「私が、何故、このような姿になったか、どの様な罪を犯したか、聞いてもらえるだろうか。」
私とイリリアは、言う言葉もなく、頷いた。