レスギンの獅子(幕間)

ソーリア、王宮

 大陸西岸最大の版図を持つソーリア王国の王宮にしては、パロイ宮殿は少しばかりこじんまりしていた。もちろん住居としては十分すぎる広さだし、王の執政に必要最低限の人数を納めることはできるが、騎士団の閲兵をしようなどと思えば兵士が城壁までぎゅうぎゅう詰めになってしまうだろう。敷地の足らない最大の理由はパロイ宮殿が元々丘の頂にあった城を中心に建てられた事による。都市の発展に従って次第に拡張していった宮殿も、いつの間にか周囲を貴族の邸宅や公庁舎などに囲まれ拡張のしようもなくなっていた。立地はともかく敷地が手狭なため、いまや殆どの騎士団はそれぞれの兵営に配され、貴族院・最高法院などはごく近隣とは言え敷地から出ていって久しい。宮殿に残っているのは諮問院や枢機院といった少数の執政機関ばかりで、残りは王室の私的な住処ということになる。
「退屈ね。」
寒空の下、城館の開けはなった窓辺に頬杖をついて外を眺めている少女がいた。新年の大聖祭で十六になったので少女と言うより”乙女”と呼んだ方が的確なのだろうが、その風体は乙女と言うより伊達男といった方がふさわしいだろう。少女は男物の綿の上着に腰丈の上衣をはおり、細い足にぴったりと包んだ乗馬服の裾を長靴に突っ込んでいる。腰には軽く身反りの入った長剣を佩き、同じ剣帯には短剣も差している。背丈こそ城内のどの女性よりも高いが、それ以外の発育はお世辞にも豊かとは言えない。目元の涼しい気品のある面差しと、象牙彫りの髪飾りで留めた腰までの見事な銀髪があればこそ、この装束でも女性であることを疑われないが、遠目には線の細い青年と見えるだろう。
「退屈で死にそうだわ。」
そういいながら少女は窓枠に寄っかかったまま仰向けになり、頭を窓の外に投げ出して逆さまに外を眺めた。宮殿の二階から見える景色は、いつもなら彼女の目を飽きさせないソーリアの町並みを映し出してみせるのだが、今は立ちこめる薄靄が情景ををぼんやりとした輪郭と影に変えていた。年が明けて一月二月となると、王都ソーリアは時折気まぐれに降雪と靄の訪問を受ける。これが次第に雨と霞に変わっていくにつれ、春の目覚めが近づいてくる。だが、この活発そうな少女には春の予感よりも今の無聊の方が気になるらしい。外の靄は静かに厚みを増して、窓の景色を灰色の帳の中に隠そうとしている。
「また雪が降るわ。わたし雪は嫌い。道がぬかるんで馬が走れやしない。」
「イリリア、もう窓を閉めて。湿気が入ってしまうわ。」
少女が頭を起こすと、穏やかな表情を浮かべた女性が部屋に入ってきたところだった。乙女という形容がそのまま過不足無く当てはまるようなこの女性はイリリアの三歳上の義姉、アイリナ王女だ。今のところ王位継承権で第二位にあるこの女性は、勝ち気で活発なイリリアと対照的に穏やかで落ち着いた雰囲気を持っている。行きがかり上姉妹と言うことになっているが、二人の本当の関係は従姉妹になる。もっとも、そんな込み入った事情や性格の違いにも関わらず、不思議と二人はうまく行っていた。
「あ、ごめん。いま閉めるわ。」
そういってイリリア王女は恨めしげな視線をもう一度外に向けながら窓を閉めた。大仰なため息を吐いて椅子に座り込んだイリリアを見て、アイリナは笑みを浮かべた。大聖祭の宴を過ぎてもう一週間もイリリアは『退屈で死にそう』を繰り返していた。乗馬に剣技が大好きなこの王女は外に出られないこの時期はいつもこの調子なのだが、今年は特に『退屈病』がひどいようだ。アイリナにはその理由も見当が付いたが、その原因の名を口にすればたちまち妹の機嫌が悪くなるので、なにも言わずに丸机の向かいに座るとやりかけの刺繍を手に取った。
「姉様、クレスは?」
イリリアが刺繍を興味なさげにのぞき込んで訪ねるとアイリナは視線をあげた。
「あの子はフィリナ先生とお勉強よ。ニケダス公のお子さんたちが午後からいらっしゃるから、一緒に遊ぶ前に課題をやらなきゃならないそうよ。」
アイリナの妹、第三王女のラクレシアはイリリアより四歳下の十二になる。元気が服を着ているようなお転婆で、イリリアとはもちろん気が合う。人なつこい性格なので、各公家や伯爵家の子供たちに人気がある。
「ああ、あの子たちが来るのね。もしかして上のほうの男の子も来るの?ほら、あの顎長で甲高い声の・・・」
イリリアは顔をしかめながら言った。感情がそのまま表情に出る質なのでこういうときもわかりやすい。
「あまり好きじゃないみたいね。」
「話が退屈なんだもの。馴れ馴れしいし。」
「でも、あの人はあなたと仲良くしたいようだけれど?」
アイリナの口振りにイリリアは口をとがらせた。
「悪いけど私にその気はないわ。」
アイリナは静かな視線をイリリアに向けた。
「でも、あまり邪険にしない方がいいわ。もしかしたら将来あなたの夫になるかも知れない人よ。」
「悪い冗談ね。あれと結婚するくらいならトレウンカイド家の誰かの方が千倍はましよ。マラケシュ公の息子なら、末っ子以外はまともだし。・・・それにね、私は一生結婚なんかしないわ。」
イリリアがそううそぶくと、アイリナは少し考える様子で小首を傾げ、ゆっくりと大きく笑みを浮かべた。
「あら。それはすばらしいわ。あなたが結婚しないなら私がどこかへお嫁に言っても王家は安泰ね。」
「え、ちょっと、姉さん。それは困るわ!あたしは・・・・」
イリリアがムキになって思わず椅子から半立ちになると、アイリナはくすくすと笑い声を立て始めた。
「もうっ!からかわないでよ!」
「ふふ・・だって、心にもないこと言うからよ。」
「そんなこと無いわ!わたしは・・・」
言葉を切って俯いたイリリアの肩にそっと手をおいて、安心させるように顔をのぞき込んだ。
「大丈夫よ。彼は一生ただの騎士で終わる人ではないわ。」
「うん。」
頬を朱に染めたイリリアは頷いて、ゆっくりと息を吐いた。年が明けてから、いや、去年の秋の叙爵式にマルクが近衛騎士に任じられた時から、イリリアの心には期待と不安の間を揺れ動いていた。マルクの微妙な態度の変化がイリリアの心をかき乱し、逆に公務とは言え少しでも共に過ごせることが喜びをもたらす。だが、年が明けるとすぐ行く先も告げずに、消えるようにどこかへ旅立ってからは不安と寂しさが募った。マルクの行き先は騎士隊長に聞いても教えて貰えなかった。宰相が箝口令を敷いたのだろうが、悔しいことにその判断は正解だった。行き先を知ったらイリリアはこれ幸いと城を飛び出しただろうから。
「それにしても、あいつ何処行ったんだろ・・・。」


ソーリア、ラタス伯私邸

ツグミよ、今なんと言った?」
ラタス伯レイモン=パロイ=ロゴス、ある者からは国の要と、他のある者からは国賊とも呼ばれるこの人物は、非情なほどに冷静な態度の持ち主として知られてきた。毀誉褒貶の激しさも、幾分冷笑的な普段の態度に因るものが大きいだろう。その黒衣の宰相は常にもあらず語気を強め、眉根を寄せて聞き返した。相手は簡素ながらも仕立ての良い衣装に身を包んだ貴婦人である。もっとも、「ツグミ」などという名の貴婦人などいるはずもない。この女はラタス伯が飼っている多くの密偵の一人である。
「レイモン様、怖い顔なさらないで下さいな。わたくしはただ連絡のあったことだけをお伝えしているだけですわ。」
「怖い顔などしていない。なんと言ったか聞いているだけだ。」
ラタス伯はそれでもいらだたしげな表情を消そうとしなかった。ラタス伯はこの女密偵が苦手だった。妖艶な雰囲気は年齢を隠してしまうし、機知に富んだ受け答えは真意を覗かせない。女の魔性と不可思議を身をもって体現しているような女だった。妻を失ってから十五年というもの、女人という女人を寄せ付けずに過ごしてきた宰相だが、この連絡役の女密偵だけは例外と言えた。
「もう一度聞くが、若獅子がレスギン砦に向かったのは間違いないのだな。」
「ええ。カササギの手ではトラヴィスには三日といなかったそうです。」
「ふむ。・・・なぜあれはイーリスに行かんのだ。」
「ご命令なさればよかったのですわ。あのお坊っちゃんは閣下の臣下ではありませんか。」
ラタス伯は苦り切った様子で目の前の女の目元を見つめた。この状況を楽しんでいるのは間違いない。二十は年上の男やもめをからかっているつもりか。
「あ奴は陛下の家臣、いや、正しくはソロスという国の僕だ。曲がりなりにも近衛騎士だからな。もちろんあれに命令するくらい訳もないが、理由を話さねば納得せんし、事情を話せば首を縦には振るまい。」
「あら、それは残念ですこと。まぁ、お坊っちゃまが憧れのイーリスへ向かわなかった理由でしたら、ご本人に聞いてご覧なさいませ。」
「生きて帰ってくれば、な。」
密偵の揶揄するような口調に、黒衣の宰相は不愉快げに顎髭に混じった白い毛を一本引き抜いて顔をしかめた。齢五十を控えて髪も髭も徐々に色褪せつつあった。
 その若者はラタス伯にとって頭痛の種だった。いや、心労の、といった方が正確だろうか。責任感が強く忠節にも問題ない。頭脳もおおむね明晰で理知的と言える。にも関わらず、気がつくといつもあの若者は危険のまっただ中に首を突っ込んでいるのだった。
「あの砦には何人入れている。」
「ヒバリとヒタキ、それにシギの三人です。内二人は砦の中にいるはずですわ。」
ラタス伯はこの事変に当たって数十人の密偵を湖岸地方へと差し向けていた。実際には宰相自身も正確な数を知らない。密偵を使うやり方はいくつかあるが、ラタス伯が選んだのは密偵の集団を丸ごと一つ抱え込むやり方だった。ラタス伯が指示を伝えると、密偵頭が必要なだけの密偵を差配し細かい指示を与える。その首尾は密偵頭ないし連絡役の彼の娘であるツグミから報告される。細かい部分に自身の目が行き届かないという欠点はあったが、それを補ってあまりある利点があった。ともあれ、その三人の名は当然ながら記憶になかった。
「その中の一人に若獅子を見張らせろ。手助けはするな。あれは自分にひもが付いているとわかると外したくてしょうがなくなる気質だ。」
「もう砦の方には父が手配させているとは思いますが・・・至急つなぎを出します。」
「そうしてくれ。」
「後もう一つ、街道周りの帝国の動きですが、・・・」
「それはこちらの仕事だ。カササギには北ラタールとミシュラールの軍団から目を離さぬよう伝えよ。近いうちに大きい動きがあるはずだ。」
「わかりました。では。」
 密偵頭の娘が帰るとラタス伯は硝子の酒杯を朱の葡萄酒で満たすと、物思わしげに嚥下し始めた。
 今回、若者を東へと送ったのは他ならぬラタス伯であったが、その理由は心境と同様複雑だった。一つには宰相自身が若者を高く買っていたからであり、その潜在的な才能を見定めたいと考えているからだった。 危難に出くわしたときこそ、人の本性はその姿を露わにする。 その理由からすれば当然、「若獅子」の暗号で呼ばれる若者を今回の一連の事件に関わらせるにやぶさかでない。
 もう一つの理由からも、「若獅子」は危険に晒された方が都合がいいと言える。極論すれば青年が異国の地で二三年逗留してくれればと思う。その原因は宰相の実の娘に他ならない。
 若者は王家の姫に思いを寄せていた。そしてその姫も若者を憎からず思っている。その相手が(その事実は公言できないが)実娘であるイリリア王女でさえなかったならば問題はなかった。もっともこれは私情から出る思惑ではなく、政治的な判断によるものだ。本人に知らされてはいないが、イリリア王女は既に輿入れがほぼ決まっている身だ。相手は隣国の極めて有力な君主である。この婚姻は紛れもなく政治的妥協の産物であり、ラタス伯は血肉を分けた娘を政治の暗い渦に供しようとしている。それが王国にとって必要な犠牲だと信じて。
 宰相はこの婚約を若者に告げたときの事を思い出していた。ロカール人貴族の反乱計画を通報し、王弟パロイコイ伯の兵を借りて自らの友とさえ剣を交えた若者に、宰相は飴と鞭をくれたのだった。近衛騎士という甘くない飴と王女の婚約という心を苛む鞭とが、若者に与えられた最初の殊勲だった。その二つを手に入れた後、陽気だった若者は宰相の前では決して笑みを漏らさなくなった。こういうときエディア人のように世を儚んで隠遁したり、グロクスティア人のように無頼を気取って徒党を組んだりしないだけましというものだが、若者は酒宴に興ずる事も殆どなく、時折舞台見物に出かける以外は至極淡々と日々をこなしていた。ラタス伯の目にそれは痛々しく、そして不気味に写っていた。イーリス行きを計画したのも、表面上は平静ながら危うさを内に秘めた青年の暴発を恐れたからだ。宰相は自分が若者を、娘の婚姻に与える影響を恐れていることを不承不承心の中で認めた。それと同時に、ただならぬ素質を秘めている若者に大きな期待を寄せてもいた。だからこそ、娘との仲を引き離しつつも、若者に少しでも多くの経験を与えられるようにイーリス行きを仕組んだのだ。だが、若者は常に予想を裏切る。
「マルク。おまえが次に帰ってくるときはイリリアはもういない。だがそれは国のためだけでなく、お前のためでもある。」
黒衣の人はつぶやいて杯を干した。それがただの詭弁であることはよくわかっていた。この世に恋する者同士を引き裂いても許される道理など存在しない。だが眼前にあるのはただ、非道など歯牙にもかけない獣達の宴、政治という名の暗闇だけだった。


イリンブル、ティルチ=オ=ハンデル城

 酒宴は既にたけなわだった。ティルチ=オ=ハンデル城の宴の間には城主たるイリンブル大公をはじめ、イーリス南部の主立った実力者が顔を並べていた。離散集合を繰り返し、敵味方を昼な夜なに取り替えてきたいずれ劣らぬ狢の群。モレド公シャリバヌス、リフォル伯テアドニウス、ランダイル騎士団団長ロム=ロスなど、南イーリスの、いや、北を含めてもイーリスの顔役ばかりである。ポントゥ大公とグロクスティアの皇帝大使が揃えば、イーリス列公会議とでも銘打って良い顔ぶれである。
「いずれもお忙しい方々の集まりゆえ、手早く済ませてしまいましょう。」
まずイリンブル大公であるロジエス=ティルチが口火を切る。
「そうですな。この面子で秘密会合というのもかなり無理のある話ですからな。」
「さよう。」
シャリバヌスの言にロジエス=ティルチが短く答える。
「まず、レスギン砦の情勢について報告を聞こう。」
「は。」
ティルチ家の武官が一人進み出て書簡を広げる。
「ラエル様からの書簡によるとイーリス軍八千のラタール上陸は既に終了し、三千のラタール諸侯軍と合流、レスギンに向けて暫時出発してるとのことです。書簡の日付から考えて、本日乃至は明日には包囲・攻撃を開始しているものと思われます。」
「イシャー軍の兵数は?」
ロム=ロスが武人らしい質問を出す。
「カネイ伯の二千五百を主力に総兵数約六千とのことです。」
「計一万七千か。砦一つ揉み潰すには十分すぎる数だな。三日もあればどんな間抜けでも陥せるな。」
ロム=ロスの言にロジエスが頷く。
「今日諸君に集まっていただいたのは、首尾の確認のためではない。あの忌々しい砦が落ちるのは既に決まったこと。それもここ数日のうちに、だ。それよりもむしろ、その後について確認することがこの会合の目的だ。」
「南ラタールの分割については既に何度も話し合ったのでは?」
ボマ伯ローズス=ティルチが本家の主の言葉に疑念を呈する。
「グロクスティアの皇帝から新たに申し入れがあった。それを検討せねばならない。」
「奴らには北ラタールをくれてやることで、既に話が付いているのでは?」
「皇帝陛下に置かれては、ニカロンの土地もよこせとの仰せだ。」
イリンブル大公の言に座がざわめく。
「あの欲深め。」
「奴の胃袋は底なしだな。」
ロジエスが皿を叩いて注目を集め直す。
「我らにとっては、ラタールがどうなろうと知ったことではない。今更、北ラタールの軍団に手出しされても困るしな。」
「しかし、南ラタールに手を出されると後々うるさいのでは?」
「なに、いざとなれば山の向こうの獅子どもをけしかけてやればいい。」
「それもそうですな。小生意気なニカロンさえ叩き潰してしまえば、後はどうとでもなろう。」
一同が同意を表すと、ロジエスは事が済んだ後の利益配分へと話を進める。この座の一人として、肝心のレスギン砦が数日後に陥落していることを疑う者は居なかった。