翼のない天使(1)

「弱いから負けるんじゃない。負けた奴が弱いんだ。」

 足を引きずった編み上げ髪の少女が、薄汚れた上海の街角を懸命に歩いていた。埃に満ちた空気に響くのは絞り出すような呼吸の音・・・地に落ちる涙は音も立てない。すり切れたジーンズから覗く膝頭には数え切れない擦り傷が口を開け、土埃だらけの肌に血が滲んでいる。それでも少女は、嗚咽を押し殺しながら足を進める。追いつめられた眼差し。そこに宿る恐怖と絶望・・・
「あの小娘を逃がすな。見つけ次第殺れ。」
 街路の喧噪にかすかに漏れ伝わる冷酷な声に、少女は身を固くした。捕まりたくない、死にたくない。まだ・・・。バランスを崩した少女は、愛らしく整った顔立ちを苦痛に歪めて道の端に這いよる。もう歩けない。漂う異臭に吐き気を覚えながら少女は、ゴミと汚物で溢れ返った側溝に身を沈めた。
「バカなガキだ。親父の事さえ知らなければ、今頃旦那にかわいがられて・・・・」
「いいじゃねぇか。おかげで、あの小娘は見つけた奴が好きにしていいんだ。結構綺麗なアマだったじゃねぇか。何も、すぐに殺っちまうことはねぇ。」
 追手の男達の声に身を固くしながらも、疲労と苦痛が少女の意識にもやを落としていく。行って。通り過ぎて。お願い・・・・。
「あううっ!!」
 瞬間、少女は目を覚ました。いきなり痛みが頭に走る。髪をひっつかんだ男が、少女を側溝から引きずり出す。男は、少女の体を覆う異臭にたじろいだ。
「ちっ、こんなところに入りやがって。お楽しみが台無しじゃねぇか。」
男は苦痛にゆがむ愛らしい顔と、胸まで覆った側溝の汚物とを見比べる。
「しょうがねぇ、早いとこ殺っちまえよ。いくら俺でもこんな汚えの抱けるかよ。」
鼻をつまみながらもう一人が嫌悪をあらわにする。少女を引きずり出した男が悪態をつきながら片手にナイフを抜く。少女の目が、銀色の死を前にしてぼんやりとした恐怖を映した。いま、わたしは死ぬんだ。
「めんどうもこれで終いだ・・・」
白刃が振り下ろされる。悲鳴を上げる力さえない少女に、銀のきらめきが振り下ろされる。さながらスローモーションのように・・・。少女は思わず、最期のはかない力を振り絞って瞳を閉じた。
 だが、冷たい沈黙も、安らかな静寂も、身を切り裂く苦痛も訪れなかった。体を固めたままの少女はゆっくりと瞼を上げる。その目に映ったものは、辺りを朱に染め吹き上げる血の奔流。地に伏した男達の背中から顔に跳ねかかる血流を声もなく眺める少女の眼に、髭面の男が映る。黒い革に身を包んだその腕の先に、黒光りする血刀。裁く者、冷たき刃の主、死よ・・・。少女の脳裏に焼き付いたその言葉。それが何を意味するか考えるいとまもなく、少女の意識は朱の祭典から音もなくフェードアウトした。

 少女が目を覚ましたのは、清潔なベッドの中だった。ゆっくりと見開いた瞳に映ったのは天井で回るエア・ファン。耳にはコポコポという湯の沸く音。死後に輪廻があると説く僧に会ったことはあったが、こんな唐突に始まるものだと言っていただろうか。そっと身を起こした彼女の意識は、淡い石鹸の匂いとカーテンを通して射す上海の西日、医療パッチの張られた膝のちくちくする感覚、解かれた長い髪が背中をじかに撫でる感覚、心地よいシーツの感触と、順々に半ば諦めきったように認識していった。それらの感覚は自分が生きていることを告げていたが、それは一つの檻を逃げ出した小鳥が、別の檻に捕まっただけなのかも知れなかった。
「目が覚めたか?」
 柔らかなバリトンが耳を撫でる。部屋の入り口らしき扉から聞こえた男の声に身を固くした彼女は、自分が何も着ていないことに改めて気付き、毛布を首に引き寄せる。口元に生えた無精ひげ、耳を半ば隠す黒髪、冷酷そうな切れ長の目、おそらく生身ではないだろうがっしりとした長身。部屋に入ってきたこの男もまた、自分を責め苛む男達の一人なのか。
「服を脱がせて洗った。臭いからな。」
事も無げに言った男は、椅子に腰を下ろし、古くさい機械から黒い液体をを注ぐと、彼女にカップを差し出した。手袋に包まれた手の先のマグから、香ばしい湯気が立ち上る。
「飲むか?」
彼女はおずおずと手を差し出し、暖かい陶器を受け取った。中の液体は、彼女の長い髪のように真っ黒だった。彼女は男をいぶかしげに伺った。
「コーヒーは初めてか?」
「・・・うん」
しばらく間をおいて男が答える。
「熱いぞ。気をつけろ。」
例え毒が入っていたとしても知る術はない。おそるおそる口に含んだ液体は、ひどく熱く、ひどく苦かった。彼女は、我慢してゆっくりと一口飲み下した。疲れ切った体に熱が伝わる。
「名前は?」
自分も髭の間からコーヒーをすすりながら、男は訊いた。
この男は自分をどうするのだろう。自分の名を聞いて、チェンに売ったりしないだろうか。親切を装った人間が本当に親切とは限らない。それは、彼女が両親から受け取れたただ一つの遺産だ。
「言いたくなければ、言わなくてもいい。」
男は静かな口調で言った。
「・・・サラ・・。」
わずかな躊躇いのあと、彼女は呟くように答えた。
「俺はカンベ。」
また間をおいて、男は答えた。予期していた反応はなかった。偽名を、それもどこから見ても東洋人にしか見えない彼女が西洋人の名を口にしても、怒りも、詰問も無かった。カンベと名乗った男はコーヒーをまた一口すすると、冷酷そうな瞳を物憂げに窓の外に向けて先を続けた。
「行く宛はあるのか?」
ゆっくりと男が尋ねる。視線は窓の外に向けたまま。上海の街を照らす死にかけた太陽の光が、男の口元を静かに映し出した。
 彼女は、何も答えなかった。答えたくても何も答えられなかった。記憶が少しずつ彼女の脳裏に苦痛に満ちたこの一週間の光景を映し出す。額を撃ち抜かれた父親。薬を打たれ獣となって男達と交わる母親。捕らえられた兄達。身一つで逃げ出した彼女に助力を申し出た男は父の親友ではなく、まさに父の仇だった。心を切り裂く光景が再び甦って行く。自分に頼る宛などあろうはずもない。たかが小娘に過ぎない自分には、自分の身を守ることはおろか、逃げる宛さえもないのだ。
 うつむいたまぶたに盛り上がった涙が、はらりと落ちる。一滴、二滴。涙の滴は毛布に落ち、ゆっくりと吸い取られていった。
 静かにコーヒーをすすって、男は無言で待った。少女の涙が途切れるのを。
「しばらくここにいていい。少し休め。」
男はコーヒーを飲み干してそう言って立ち上がり、ふと、少女を見た。彼女は既に、ゆっくりと穏やかな寝息を立てていた。カンベは、少女の手からマグカップをそっと抜き取って、自分のベッドを占領した小さなやわらかい生き物を観察した。疲労の色が少女の顔に影を落としていたが、それはこの少女の美しさを際立てこそすれ幾分も損なってはいなかった。編み上げの解けた黒髪は静かに流れ、少女の寝息とともに水面のように波打つ。小柄な体躯は毛布で隠れて見えないが、バスルームで汚れを洗い流したときの記憶から体中の小さな傷以外は何処も損なわれていないのを知っていた。魔の巣くう上海で生身のままでいられること自体、少女の裕福な生い立ちを雄弁に物語っていた。
「とんだものをしょい込んでしまったな。」
ひとりごちたカンベは、合金と生体部品でできた擬体のいかつい指で少女の涙をそっと拭った。音を立てずにドアを閉め照明を落とすカンベの顔には、当惑の中にほほえみが入り交じった奇妙な表情が浮かんでいた。