翼のない天使(2)

「悲しい事もある。寂しいこともある。でも、生きているってそういうことでしょ。」

 サラ、と名乗った少女が微睡みの縁から再び瞼を上げると、窓の外から日は射し込んでおらず、殺風景な部屋には窓辺のライトスタンドだけが微かに光をともしていた。カンベといった男の姿はなく、空調が微かな音を立てているだけだった。ふと起きあがりかけて、少女は猛烈に空腹を覚えた。記憶している限り、チェンの屋敷を逃げ出してから先程の(といってもどれくらい寝ていたかは分からないが)コーヒー一杯しか口にしていない。メイドを呼ぼうと声を上げかけてはっと、自分の今の境遇を思い出した。例えカンベという男が見かけによらず本当に親切な人だったとしても、呼びつけていい顔をするはずがない。この部屋は殺風景だけど扉の向こうには何か食べ物があるかも知れない。ベッドを抜け出しかけて改めて裸の自分を眺めた。膝に張り付いていた医療パッチは成分を出し尽くして蛋白質のかすになっていた。その下の傷口はもう塞がってうっすらと跡だけが残っている。カンベは、本当に見かけとは違う人物かも知れない。
 何か衣服がないかと探したが、ベットのまわりには何もなかった。仕方なくシーツを剥いで体に巻き付け、扉を少し開けて向こう側をのぞき込んだ。
 扉の向こうは8m四方くらいのさして広くない部屋で、誰もいないのか薄暗がりだった。扉を開けて少し経つと天井の間接照明が少しずつ明るさを増してゆき部屋を照らした。奥の壁面には小さな家庭用の個人端末が据えられ、部屋の中央には古びた合成皮革のソファが二脚に膝の高さのテーブルが一台。他には戸棚が2台あるばかりで、人影は何処にもなかった。カンベは何処へ行ったのか。音を立てないようにゆっくりと部屋の中にはいると、テーブルの上にメッセージパッドがメッセージ有りと表示して燐光を放っているのが見えた。おそるおそるテーブルに近づきメッセージパッドをのぞき込むと、そこから人形大の立体映像が現れた。
「おはようございます。カンベ様は只今出かけております。あなた様宛のメッセージがございます。」
 突然の声にちょっとひるんだ少女は飛び上がりかけたが、相手がただの家庭用端末のAIであることに気がついてほっとため息をついた。
「メッセージを読み上げてよろしいですか?」
汎広東語ではなく汎英語で訪ねてきたAIのホロは20代後半の秘書風の姿をしている。少女がのぞき込むとご丁寧にもうっすらと微笑みを浮かべて見せた。家庭用端末標準のアヒルや猫型ロボットとかでなくて良かった。あの悪趣味なキャラクターにいきなりがなられたら、心臓がどうにかなっていたに違いない。
「お願い。聞かせてちょうだい。」
少女はホロに訛のないキングスイングリッシュで答えた。彼女の英語は父が雇った家庭教師に仕込まれたものだ。厳格な英国人の女性で、数年前に極寒の英国へ帰っていった。英語をはじめ、フランス語、ネオラテン語、日本語、真アラブ語と一通りの語学は彼女からマスターしている。もっとも、ほとんど役に立ったことはないけれど。
「・・・以上、カンベ様からの御伝言でした。」
少し気をそらしている間に聞き漏らしてしまっていた。内に篭もりがちな意識を集中させながら少女はもう一度尋ねた。
「ごめんなさい。聞き逃してしまったの、もう一度お願い。」
「おやおや。では、今度はお聞き逃しの無いように。『服は汚いので捨てた。何か買ってくるのでしばらく我慢しろ。食い物はキッチンにある。キッチンは寝室の反対側だ。端末は自由にいじっていいが、余計なところは覗くな。』以上です。もう一度繰り返しますか?」
「いえ、今度はちゃんと聞いていたわ。」
悪戯っぽく尋ねるAIに断って、少女は今一度考えを巡らせた。カンベは少なくとも私をやっかい払いする気はないし、売り飛ばす気もないみたいだ。どちらにも服は特に必要ないから。もっとも、帰ってくるまで本当の所は分からないけれど。いずれにしろ、売り飛ばす気ならば今頃この部屋に一人でいられるはずもない。取りあえず、好意に甘えて何かお腹に入れよう。これ以上空腹には耐えられそうもないし。
「ところで、シーツの似合うお嬢様?失礼ですけれどお名前は?カンベ様からは伺っておりませんの。」
唐突に呼びかけられてまたもやどぎまぎしてしまったが、少し間をおいて答える。
「サラ・・・でいいわ。」
「左様ですか。ではサラ様、わたくしカンベ様の秘書で『イヴ』と申します。何かご用の向きがございましたらお申し付け下さい。」
そういうと自称『秘書』のイヴはにっこりと微笑んだ。おそらく市販のAIなのだろうけれど、カンベの外見からすると意外な感じのするかしましいAIだ。自称『サラ』はともあれ食事のことを尋ねることにした。
「お食事の方はキッチンにてご用意いたしますわ。何かお好みはございますか?」
「何でもいいわ。狼のように飢えているの。あ、でもお肉はできれば入れないで。」
「かしこまりました。あちらのキッチンへどうぞ。」
かしましいイヴは立ち上がる真似をしてどこからか取り出したエプロンを身につけ、鼻歌混じりに消えた。芸の細かいAIにサラは目を丸くした。彼女の育った家には冗談混じりに会話をするAIなどいなかったし、まして鼻歌など考えもしなかった。一瞬、誰かがこの部屋をモニターしていていちいちからかっているのかとも考えたが、『誰か』がカンベしか思いつかないので間の抜けた考えは忘れることにしてキッチンへと立ち上がった。
 キッチンでイヴと会話しながら食事を済ませると、やっと人心地がついた。イヴは会話するには楽しい相手だったが、カンベのこととなると異様に口が堅かった。食事中に聞き出せたのは、ここがカンベの個人所有の部屋だということ、カンベが何処の組織や会社にも属していないことの二点だけだった。カンベがどんな仕事をしているのか、カンベがどういう人間なのか。サラには皆目見当もつかなかった。あの体はほとんど擬体だし、冷酷そうな目と顔を覆った髭も、おそらくはカンベの本来の体ではないと思う。でも、擬体に体を取り替えている人間なんてあまり珍しくもない。もっとも、それなりのお金は掛かるという話だけど。問題なのは、もしあの時私を助けてくれたのが間違いなくカンベだとすると、瞬時に死体を二つ作り上げたのもカンベだということになる。あの血を吹き上げる肉と骨の塊・・・
「うぅっ・・」
死体を思い出したとたん、胃がでんぐりがえりそうになった。必死に吐き気を押さえたが、喉元に酸っぱいものがこみ上げてきていた。サラは必死に流しまで駆け寄ると、先程まで快感であった食べ物を不快感とともに吐き出していた。苦しげな嗚咽に混じって涙がこぼれる。よりにもよってあんな事を思い出したことを今更ながら後悔した。
「サラ様?大丈夫ですか?」
背中でもさすってくれそうな口調でイヴが尋ねたが、サラにしてみれば気にしている暇もない。せっかく食べた数日振りの食事を払い戻すので精いっぱいだ。
「喰わせ過ぎたなイヴ。」
「あら、お帰りなさいませ。でも、お食事の内容や量はサラ様のご希望に添ったつもりでしたが。」
いい加減一通り吐いてしまってからサラは、横目で後ろを伺ってみた。プラスチックの包みを抱えた髭面の大男が批判的な眼差しで彼女を眺め回していた。
「気は済んだか?」
横目できっと睨み据えて何か言い返そうとしたとたん、吐き気がまたせり上がってきた。サラの苦しそうな様子を片眉を上げて眺めながら、カンベは続けた。
「しばらく胃に何も入れていなかったのにがっつくからだ。以外と意地汚いな。え?お嬢さん?」
「苦しいのよ、放っておいてちょう・・・う・・・」
言い返そうにも胃が言うことを聞かない。サラは、もはや何が原因で吐いていたのかも忘れて無心で吐いていた。
「落ちついたらこいつに着替えろ。シーツが気に入ったんならそれでも構わないが。」
腕に抱えた包みをキッチンのテーブルに置くと、部屋を出ていきながらカンベはもう一度サラに一瞥を送った。
「イヴ。そこの意地汚いお嬢さんが思う存分吐き終わったら、服の大きさを見てやってくれ。一応合うサイズを買ってきたつもりだが、女物なんて俺にはよくわからん。」
「かしこまりました。」
カンベの出ていく足音を後ろに聞きながらサラは、もう胃液しか出てこないのに半ば自棄になってとにかく吐き続けていた。朦朧とした思考の中で、カンベという男の評価をどうしたものか、いや、立て続けに浴びせられた言葉にどうやってお返しをするか、サラは考えていた。少なくとも、お返しをするまでは生き延びてやる。サラは、そんなことを考えている自分に心の中でくすくすと笑い声を漏らした。

 服のサイズはほとんど問題なかった。プリントの入ったTシャツもゆったりしている程度で体に良くなじんだし、デニム地のキュロットスカートのウェストもぴったりだ。ただサラにとって侮辱とも取れたのは、ブルゾンからスニーカーまで全て身につけるとまるで遊園地でアイスクリームをねだる女の子みたいな格好になったことだ。極めつけの野球帽を後ろ向きに被ると、とても17歳のレディには見えない。サラは姿見に映った自分の姿を眺めて髪を後ろで束ねると、ふんっと鼻を鳴らした。
「良くお似合いですよ。サラお嬢様。」
イヴのお世辞までカンに触る。お金を払ったのがカンベ当人だということをさっ引いても、一言くらい文句を言っておつりが来るような気分だったが、もう一度鼻をならすだけで我慢した。実際、小柄で線の細い彼女にはこのガキっぽい格好が腹の立つくらい似合うのだから致し方ない。
 扉を抜けてダイニングルームに戻ると、彼女にこういう衣装を選んだ相手はソファでくつろいでコーヒーをすすっていた。
「良く似合うじゃないか。」
着替えた彼女を批判的に眺めていたカンベは、にやっと笑いながら誉めた。一瞬、サラの心に腹立ちと奇妙な照れくささが頭をもたげた。
「サイズはぴったりよ。服のセンスには多少不満もないではないけど、我慢するわ。」
「不満が出てくるようなら大丈夫だな。落ちついたらミルクと果物でもイヴに食べさせて貰えばいい。」
カンベの向かい側のソファに座りながら、サラはふと恥ずかしくなった。命の恩人らしき人物とはじめてまともに口を利いたのに、御礼も言わずにいきなり不平からはじめてしまった。
「えっと。不躾なこと言ってごめんなさい。改めて言うのも何なんですけど、御礼を言います。ありがとう。」
サラは少し頬を赤らめて、少し改まった口調で礼を言ってみた。
「礼?何に対しての礼かは知らんが、気にすることは無い。こっちは子猫を拾ったくらいにしか思っていないんだからな。」
「子猫!?じゃぁなに?私はあなたのペットって事!?」
カンベの言葉はいちいちサラのカンに触る。またもや苛ついた声で答えてしまう。
「別にペットにしてやると決めた分けじゃない。とにかく、俺はしばらくここにいていいって言ったんだ。だから、世話するのは俺の好きでやっていることだ。気にするなと言っているんだ。」
「カンベ様、またやりましたわね?サラ様。カンベ様はいつもこの調子なんです。あんまりお気になさらないで下さいまし。」
「あ・・・え、ええ。」
イヴに言われて何となく頷いてみたものの、こんな物言いの相手は初めてだった。少なくとも、子猫に比喩されたのは生まれてはじめてのことだ。
「イヴ。お前は俺のお袋みたいだな。いちいち取りなして貰わなくてもいい。」
「はいはい。分かっておりましてよ。」
イブの軽妙な切り返しを見ながらサラは、いつもこの調子なのだろうかといぶかしんだ。カンベという男がますます分からなくなった。
「ところでサラ・・・・でいいんだな?」
サラは軽くうなずいた。不思議と、苦し紛れにひねり出しただけの偽名がもう耳になじんでいた。
「ではサラ。お前さんがどういう事情でこんな事になったのかは俺にはどうでもいいし、これからどうしようとお前さんの勝手だが、二つだけ言っておく。俺がどういう人間で何をしているか詮索したりするな。そして、あの扉には入るな。それさえ守れば気の済むまでここにいてかまわん。」
カンベは寝室の扉の横にある別の部屋の扉をさした。
「もっとも、俺がお前だったらこんな得体の知れない男の部屋何ぞさっさと逃げ出すがな。」
片頬だけ器用に歪めて皮肉そうな笑いを作ると、カンベはサラに一瞥を送った。
「しばらくご厄介にならせて下さい。他に行く宛なんか無いから。」
サラの心はもう決まっていた。チェンに、彼女にあたう限りの苦痛を与えたあの男に必ず生きて地獄を味あわせてやる。でも、一足飛びにチェンに復讐なんかできっこない。今私に必要なことは、子供っぽい格好をしたサラという少女でいること。そして生き延びること。ここを飛び出しても数時間でのたれ死にするか売り飛ばされるのが落ちだ。焦っても何も出来やしない。もっとも、とカンベに一瞥を送りながらサラは考えた。この男と上手くやっていくのはそれなりに難事な気はするけれど。
「そうか。なら、しばらくこのコンパートメントからは出ないことだな。ここをかぎつけられるとも思えないが、万が一にもやっかい事を持ち込まれるのは好きじゃない。俺の寝室はお前さんにやるから自由に使っていい。買い物は暇なとき俺が買ってきてやる。詮索されるのは嫌いだから宅配は使うな。他の用事はイヴにやらせろ。いいな。」
「はい。ありがとう。」
「いい返事だ。それと、何を喰おうとお前さんの勝手だが吐くのは大概にしておけ。」
サラは冷たくにらみ返した。
「ご忠告どうも。」
こうして自称・サラは、謎の男・カンベの部屋に居候することになった。もっとも、この男と上手くやっていく自信はあまり無かったが。
「この人、いつもこうなの?イヴ。」
「ええ。どうしようもない方でしょう?」
カンベが面白く無さそうに鼻を鳴らした。