翼のない天使(3)

「この森は心の森。鏡の如く汝の心を映し出す。」

 サラの新生活は、彼女の緊張とはうらはらに、淡々と三日が過ぎた。
 カンベの住むコンパートメントは小ぶりの共住アーコロジーで、西に向いた窓からは新上海市街のある許洲島と本土に見える長江の河口が見渡せた。風景からして港の側にある日系企業のアークのどれかだろうと、ぼんやりと馴染みだった新上海市街の町並みを眺めながらサラは見当を付けていた。日本の企業とも付き合いのあった父に連れられて港には何度か来たことがあったが、本土の山の手で育ち出かけても新上海市街が関の山だった彼女にしてみれば、その風景はほとんど外国と言っても差し支えないほど他人じみた風景だった。
 目が覚めてからのサラは、窓から外を見たり、イヴとおしゃべりしたり、そして、カンベのわずかな蔵書を端から眺めたりした。カンベは古風な男で、フォロクリスタルも電子書籍の類も一切持っていなかった。持っているの本は十数冊だが、一冊を除いて全て刀剣と銃器と爆発物の専門書とサバイバルに関する書籍で、サラはその面白味のカケラもないの束を臭いものでも見るように眺めた。その本の中の例外は、書棚の端っこに申し訳なさそうに差し込んであった「徒然草」と言うエッセイのような本で、サラはカンベの意外な面をちらりと覗き込んだような気がした。
 カンベは非常に多忙な男のようだった。音声のみの電話で唐突に呼び出され、使い込まれたゴルフバック片手に出かけていき、半日もすると戻ってくる。カンベが何を生業としているのか。それは何となく気がついていたものの、サラの頭はそれをどうしても否定したがっていた。口調は多少乱暴だし、愛想がいいとはお世辞にも言えなかったが、カンベはそれなりに親切な男で、何より彼女の命の恩人なのだ。「絶対に開けるな」と言われた”あの”扉を見る度に、押さえようもない好奇心が頻繁に頭をもたげてきたが、サラはそれを必死で押し殺した。
『俺がどういう人間で何をしているか詮索したりするな。そして、あの扉には入るな。それさえ守れば気の済むまでここにいてかまわん。』
あの扉を開ければ何処にも行くあてはなくなる。そして、わたしの疑惑は確信に変わるだろう。カンベの台詞が、彼女の好奇心を押し止める最後の楔になっていた。

 カンベが夕闇に誘われるようにして呼び出されて出かけ、深夜も早朝に出会おうかという時間に帰ってきたとき、サラはソファで「グラン・ブルー」という昔の映画を見終わったところだった。
「お帰り〜。あふぁぁ」
サラが生欠伸をしながら出迎えると、カンベは江州湾の霧に濡れそぼったコートを無造作に脱ぎ捨てて、不機嫌そうにゴルフバックを”あの”部屋の中に放り投げていた。
「乾かさないと風邪ひくわよ。」
カンベはサラに目もくれず、無言のままバスルームへと入っていった。
「・・・なによ。」
サラは、いつもに増して無愛想なカンベに少しばかり腹を立てた。居候とは言え、少しぐらい気を使ってくれてもいいはずよ。少し意見してやろう。口をとがらせてバスルームの扉を少しだけ開けたサラは、中を覗き込んだ。
「ねぇカンベ。仕事の後で疲れてるのかも知れないけど、口くらい聞いてくれてもいいでしょ?」
口にしてから思い直した。これでは同居人として文句を言っていると言うより、子供が甘えているみたいだ。頭の中で他の台詞を探していたが、思いつくよりも先にシャワーの水音の中から低い声で返事が聞こえた。
「お前に話すことなど無い。」
「そんな言い方ないでしょ!私、心配してたんだから!」
とっさに口走った言葉に本音が出てしまって、はっと相手を見たが、カンベの姿はシャワーの湯気に隠れてほとんど見えない。
「俺の事なんか心配してる場合か。自分の心配でもしろ。」
カンベの声はいつにまして厳しく、サラの胸を穿った
「なによっ!もうしらないっ!」
扉を激しく閉めたサラは、憤然と自分の部屋に戻ると枕を叩きつけた。彼女は、バスルームの床に細く流れていた赤い筋には気がつかなかった。

 翌朝、サラの心には一つのちょっとした計画が浮かんでいた。寝室から出てきたサラは、デニム地のキュロットスカートに赤と緑のブルゾン、ケッズのスニーカーに大きめの野球帽を目深に被っていた。ソファに横になっているカンベを一睨みすると、口をへの字にむすんでアパートメントの玄関へ忍び寄った。
「ミス・サラ、どちらへ?」
イブ探るような目つきに彼女はにっこりと微笑むと、当然のように告げた。
「ちょっと出かけるわ。もう4日もこの部屋から出ていないもの。」
イブは冷ややかに眉を上げると、口角を曲げて見せた。
「ミス・サラ。いいアイディアとは言いかねますわね。少なからず軽率だと思いますわ。」
「随分きついわね。大丈夫よ。このままこの部屋に閉じこもっていたら、わたし腐っちゃうわ。遠くには行かないし、2時間で帰るわ。」
「カンベ様にはお話しされましたか?」
「あら、カンベなら昨日、『自分の心配をしろ』って言ってたわ。わたし、息抜きしないと気が変になりそうなのよ。ねぇ、いいでしょ??」
「ふぅ。」大仰にため息をついて、イブはサラを眺めた。
「2時間ですよ。それと、このアークの中から出ないで下さい。よろしいですね?」
「ええ。約束は守るわ。」
サラは笑みを更に強く浮かべると、扉を開けてアーコロジーの中へ足を進めた。彼女を狙う者がこのアーコロジーに狙いを定めていたことは、サラには予期し得ないことだった。

 久しぶりの街を眺めながら、サラは人通りもまばらな街路樹の下を歩いていた。日系の共住アーコロジーと言うことで、彼女が親しんだ本土の町並みや新上海市街とは雰囲気がまるで違ったが、立ち並ぶ店と建物の中とは到底感じられない広がりは目に新鮮だった。ショーウィンドウや飲食店の店先を覗き込みながら、サラの目は好奇と期待にさまよっていた。ヌーベル・デルタの最新ファッションやNOVAのサイバーコスメティック、キャンディスのスナックなど、色とりどりの売り物がサラの気をひいたが、華人の中でもお世辞には身長が高いとは言えないサラにヌーベルのモードは残念ながらどうやっても似合わないし、機械の部分が丸でない”フルウェット”なサラにはサイバーコスメティックを埋め込むラッチなんか一つもない。小一時間もして結局お菓子一つを手に人影のない裏通りでふと立ち止まったサラが感じていたのは紛れもなく昨夜と変わらない、埋めがたい孤独だった。
「はぁ・・・」
結局、わたしは何をしてるんだろう。サラは自問した。こうして外に出てはみたものの、何かが起こるわけでもなく、何か目的があるわけでもない。そもそも何を期待していたの?カンベが慌てて迎えに来るとでも?あの鉄面皮のカンベが?・・・・わたしは何をしてるの・・・。
 家族の仇を討とうと決めたけれど、そのために何をしたらよいか分からない。カンベともギクシャクしている。カンベは確かにわたしをおざなりにしているし、わたしに詳しい話を聞こうともしないけれど、それはカンベの自由でわたしが文句を言える事じゃない。結局のところ、カンベだってわたしには関係のないただの他人に過ぎないんだから。カンベの目にはわたしはきっと、道ばたの石っころぐらいにしか映っていないに違いない。
「ばか・・・。」
サラは目の前に一瞬現れたカンベの皮肉な笑いに小さく言葉を投げつけて、その場に座り込んだ。膝に頭を埋めると、自然と水滴が頬から落ちアーコロジーのコンクリートの色を一点だけ変えた。
「ばか・・・。」

「見つけました。あの男はやはり・・・・はい。え?バラすんじゃ・・・。・・・・はい。分かりました・・・チェンさん。」

「イヴ。どうして止めなかった。」
「カンベ様!ダメです!まだ癒着が済んでないじゃ・・」
カンベはイヴを叱責しながら右腰の麻酔パッチをひっぺがした。パッチがあった場所には皮膚を突き破って金属の突起が顔を覗かせ、生身とサイバーパーツの境を顕にしていた。その横には縫い合わせたばかりの弾痕から血がにじみでていた。
「あの嬢ちゃんを狙ってるのは青班のチェンだ。奴がどういう男だか知らんわけじゃあるまい。」
「チェン・・・黒社会を食い荒らしてる青班のチェン・ウォンリーですか?何でまたサラお嬢様が?」
「詳しい話は後だ。あのじゃじゃ馬を連れ戻してくる。場所は?」
「えーっと、あらあら随分向こうへ。4ブロック先のメインから外れたところです。地図送ります。」
カンベの電脳のヴィジュアルフィールドに簡単なマップが流れ込む。イブがサラの野球帽に仕込んだマイクロマシンの発信器はその場所でじっとしていた。
カンベはゴルフバックの中から一振りの日本刀と銃を二丁手早く仕込むと、薄汚れた布で身を包みバイザーで目を覆った。
「そこまで重装にすることは・・」
『相手を考えると、な。お前はこの部屋とマーカーから目を離すな。』
無線で指示しながらカンベは扉を開けた。カンベはいつになく自分の鼓動が早くなっていることに気がついた。それが何のためか、カンベに詮索するいとまも、意図もなかった。熱光学迷彩がカンベの姿を消し、足音だけがアーコロジーの内壁を走った。