翼のない天使(4)

「この世に人種があるとしたら2つだけさ。人殺しと、そうでない奴と。」

 膝を抱えてうずくまっていたサラは、コツンという微かな物音に頭を上げた。目の前には誰もいない。ふっと勘の導くままに上を見上げたサラは、一瞬レンズと機械と長く裂けた口とで出来上がった奇怪な顔に出くわしたが、悲鳴を上げるまもなく首筋に鈍い痛みを感じて半ば意識を失った。
 サラの首に空圧式注射器に似たものを押しつけていた男は、ワイヤーのフックをゆるめ、奇妙に長く細い擬体の四肢を地上に降ろした。男は200メートルは上に見えるアーコロジーの内壁から蜘蛛の糸ほどのワイヤーを使って降りてきたのだ。男が注射器状の銃身を親指の付け根に自動的に収納し、サラの顎を金属で作られた凶々しい指で撫でていると、もう一人の人影が裏通りに現れた。グラサンにノンタイの紫シルクシャツ、麻のツーピースに編み革のローファー。見るからに黒社会、いやチンピラ。
「おっそいよぉ?もっともぉ、僕にしてみたらもっと遅く来てくれたほうがぁ、嬉しかったんだけどねぇ。」
「女は・・・気絶してるのか?」
後から来た男は、グラサン越しにサラの顔を覗き込んだ。サラの瞼は今にも目覚めそうにひくひくと動いていた。
「気絶もしてないよぉ。ぼくのコンプレッサーガンはショックで中枢神経をパニックにしちゃうだけだからぁ、今この娘の頭んなかじゃぁ、僕たちの声がくぉぉぉぉぉぉぉんなぁぁぁぁぁふぅぅぅぅぅぅにぃぃぃぃぃぃきぃぃぃぃぃぃぃこえてんのさぁ。あ、それとぉ、ほっといても10分くらいで正気に戻っちゃうよぉ。」
変声しながら喋る”蜘蛛男”に嫌そうな視線を送りながら、”チンピラ”は手早くサラの体をセンサーで調べると帽子を放り出した。
「やっぱり糸が付いてやがった。」
「糸ぉ?このガキ一人じゃないのぉ?」
「ヒョウって知ってるか?」
「ヒョウっていや伝説の首刈り魔じゃないのぉ。・・・・・・ぇぇぇええ!聞いてないよぉ!」
「ヒョウだって化けもんじゃねぇ。手早くすましゃ、誰がやったかも気がつかねぇよ。とにかく、早いことこのアマをアークの外に渡してくれ。」
「っきしょぉ・・・ぼくをだましたなぁぁぁ。」
そう言いながら”蜘蛛男”は両腕でサラを抱き抱えると、文字どおり蜘蛛のように足からアークの内壁に向かって登っていく。それを見ながら”チンピラ”は声帯マイクで仲間を呼び寄せていた。チェンは、彼の言うところの”喉に突き刺さったトゲ”を抜くのに5人のプロを集めていた。例えヒョウが化け物だとしても、5人の手練を相手に無事では済まないだろう。そんなことを考えながら”チンピラ”はその場から立ち去った。彼の最優先事項はあのアマの拉致だ。ヒョウを片づけるのは、幸いなことに、連中に任せておけばいい。

 カンベがビルの隙間から下を見下ろすと、そこに落ちていたのは青い野球帽だけだった。半ば予想したことだが、痕跡を探るにしても下へ降りなくてはならない。
『イブ。糸が切れてる。アークの外壁を走査しろ。』
そう指示だけ送って、カンベは無造作に体を捻りビルの下へと身を放り出した。地に足が着く寸前、カンベは微かな殺気に身を翻し、壁を蹴った。その見えない残像を追うようにショットガンが弾丸をまき散らし、高周波ブレードが地を凪いだ。カンベはそのまま壁沿いに跳ね飛び、腰間から白刃が飛び出したかと思うと、何もないように見えた空間から首が一つ、ごろり、と転がり落ちた。刃が収まるのも見えぬ間に、タタタッ、と乾いた一連射が聞こえ、ショットガンを握った両手が無造作にビルの上から落ちてきた。
 数秒待って、カンベは気配を絶ちながら、ビルの壁に微かに残った奇妙な形の足跡をつぶさに眺めていた。足跡は上から下へ、一度地上に降りて重くなりそのまま上へと消えている。つまり、そいつがサラを連れていったわけだ。下の足跡は最初から気にしていなかった。下を普通に通ればイブの目をすり抜けることはできない。後は外壁に行ってからだな。カンベが思考を切り換えた瞬間、突然轟音とともに紫の電光がカンベを襲い壁に押しつけた。
「がっ・・・・なに・・・」
カンベが視線を向けた先には、道師服の男とひどく大柄な女とが立っていた。道師の男は一心不乱に結印と呪詛を続け、その両の掌からは電光が迸り続けていた。その前に立つ筋肉質の大女は、油断なくクリスタルシールドをかまえ、カンベにH&Kを向けていた。
「ふぐっ・・・バサラかっ!」
カンベの全身を包んだ紫の電光は、金属のサイバーボディと生身との境目を激しく苛んだ。脚の各部からは細かいアクチュエータが空転する音と焦げ臭い匂いが立ち昇る。電光の奔流が止むと、カンベはその場に屑折れた。
「片付いたかしら?」
「サイバーパーツは一般的に電気には弱い。少なくとも両手足は動かんさ。」
女の方が用心深く近づくと、カンベの頭部にH&Kを突きつけて後ろの道師に合図した。「大丈夫ね。腕も脚も止まってるわ。噂のヒョウも以外と・・・た・・・」
その台詞が終わらぬうちに、鈍く光る刃が女の鳩尾から肩胛骨の間まで貫き通していた。大女の指は反射的にサブマシンガンの引き金を引いていたが、撃ち出された銃弾は空しく路地のコンクリート穿った
「な・・そんなはずは!」
一瞬遅れて反応した道師は素早く気合いの声を発して再び電光を発したが、電光が襲いかかったのは相棒の女の命なき躯だった。女の背から突き出した日本刀の切先が、電光を自らに吸い寄せて青く輝いていた。
「しまっ・・・」
道師の口は大きく開かれたままその顔は一瞬震え、わずかな停滞の後、ザクロの実が弾けるように瞬時に弾け飛んだ。脳髄と頭蓋をまき散らして倒れるその後ろには、左手を朱に染め再び姿を消してゆくカンベの影があった。

 アーコロジーの外壁は大抵、採光施設や環境維持のための設備が置かれており、住居として提供されるスペースはほとんどない。サラの意識がはっきりしてきたのは巨大な窓と偏光装置の据えられた採光室だった。何となく自分以外の気配を感じたので薄目を開けてみると、妙にひょろ長い姿がやはり細長い銃をかまえて、コンクリートとファイバーの通路に悪口を呟いているのが見えた。
「ヒョウが相手なんて、聞いてなかったよぉ・・・ちきしょぉ・・・外の連中まだ来ないのかよぉ・・・」
”蜘蛛男”は神経質そうにライフルの銃把をこすりながら、クロームメタルの擬眼をキョロキョロさせていた。サラの聴覚はまだ正確に戻っていなかったので何を言っているかは判然としなかったものの、彼女を拉致した人間が何か不都合があって機嫌が良くないらしいことには気が付いた。少なくとも、目の前にいるのがチェンでないことだけでも好材料だ。サラは物音を立てないようにゆっくりと体に力を入れていった。腕は後ろ手に拘束されていた。感じからしてファイバーかなんか手錠だ。ちょっと力を入れてみると幾らか伸びるが、抜けたり切れたりする感じではない。脚は自由に動くようだ。もっとも、腕を使わずに気付かれないように立ち上がるのは無理そうだから、今すぐどうこうできるわけでもない。今の所、意識が完全に戻っていることは気付かれない方がいいだろう。
「早く来てよぉ・・・ヒョウが来たらどうすんだよぉ・・・僕なんかやりあったら八つ裂きにされちゃうよぉ・・」
それにしてもこのひょろ長い男は何でこんなにおびえているのだろう。”ヒョウ”って誰なんだろう。
 サラが”蜘蛛男”を緊張しながらも割と平静に観察していると、通路の先から数人の足音が迫ってきた。長い腕をプルプル震わせてライフルをかまえていた”蜘蛛男”は、その足音の主を見るとほっとしたのか銃身を立てた。
「おせーじゃんかっ、青班のにーちゃん達よぉっ!」
青班・・・サラ、いや”彼女”、にとって当然予期してしかるべき名前だったが、いま目の前で口にされて思わず体が固くなった。チェン・ウォンリー、『青班の支配人』は決して彼女を逃すはずがないのだ。そう、あらゆる意味で。
「おらぁ!急いでくれよぉ!」
”蜘蛛男”の声に遅れること数拍、まず無精ひげの灰色のジャケット姿の西洋人、続いて4人の若い華人が一人採光室に入ってきた。そして・・・・
 それから数秒のことは、同時にいくつもの事が起こったので、サラには正確に把握できなかった。華人4人が一瞬にしてそれぞれ7つくらいに解体され、夥しく血を迸らせたこと。”蜘蛛男”の甲高い悲鳴と低いライフルの一連射が連なって聞こえたこと。その”蜘蛛男”が突然爆散し、コンクリートの壁にクロームとファイバーとリンゲルをまき散らしたこと。そして瞬時にかき消えた西洋人が、いつのまにか床で大柄な人影と組み合っていたこと。同時に起こったように感じられたこれらの中で、サラの印象にひどく残っていたのは、解体された男達の体から迸る血流の残酷さと美しさだった。数瞬それに見とれたサラが我に返ると目に入ったのは、だだっ広い採光室の中央、偏光器の発する七色に彩られた中に対峙する、無精ひげの西洋人と日本刀を下げた男・カンベの姿だった。
 サラの眼差しの先にあるカンベの姿は、ひどく傷ついて見えた。運足は左足を引きずっていたし、左腕は手首の辺りでひしゃげている。身に帯びた得物はあの日本刀だけ。しかし、静かに相手を見据えるカンベの擬眼は全くと言っていいほど不安の揺らぎも緊張の挙動もみせなかった。相対した男は薄灰色のスーツ姿で、右の手首から赤く光り唸りを発する鞭のようなものを間断なく揺らしながら軽いステップで左右に動きつつ、カンベを挑戦的に観察していた。
「そろそろ伝説も終わりかね、ヒョウ。上海の闇を恣にしたお前も、いよいよその名を譲るときが来たみたいだな。自分が殺される気分はどうだ?え?東洋鬼。」
細かく震えながらのたうつ蛇を操るように、西洋人は少しずつカンベとの間合いを詰めた。笑みこそ漏らさないが、その目は勝利を確信していた。
「自分の腕に自信があるようだな。”オメガ”か。得物もそう悪くない。」
微妙に間合いを詰める相手に、静かに左に動きながらカンベは応じる。
「誉めても容赦しないぜ。」
「・・・ただ、相手は選んだ方がいい。」
「ほざけっ!」
黒い姿と灰色の姿、鈍く光る鋼と赤く震えるファイバー。虹色の虹彩の中で入り乱れる黒と灰白色。死の舞踏は瞬時に、逃れることのできぬ強さで二人の男を捕らえた。

 サラは、無心に斬り、払い、かわし、突くカンベの姿を見ながら、我を忘れて歓喜に身をよじっていた。わたしを助けに来た。カンベは確かに来た。そう、カンベが。あの冷酷な眼差しの、淡々と生者を解体するあの男が。
 その歓喜が絶望に変わるのにかかったのはわずか数秒だった。確かにカンベはわたしのために来てくれた。でも、そのためにひどく傷を負っている。そして今、自分の生をわたしのために賭けて戦い、敗れようとしている。突然狂おしい思いに駆られた。このままではカンベが殺されてしまう!拮抗しているように見えるけど、生身でなくてもあの傷では平気なはずがない。それなのに相手は無傷。いくらなんでも勝ち目がない!
 まずは腕を何とかしなくては。脚を無理矢理縮めて手錠を腰からお尻へ、膝から踵へと必死に引き抜く。両手が前になんとか回ったときには手首から血が滲んでいた。サラは痛みに耐え必死に辺りを探した。何か一瞬でもあの敵の気をひくことができたら。祈るように辺りに散乱した死体や擬体の部品を目で探ったサラは、ごく近いところに拳銃らしきものを発見した。床を這いずるように転がってその銃のところに近寄ったサラは、その銃のひどく大きな姿に絶句した。”HAMMER”と刻印されたその巨大な自動拳銃の銃身の長さはサラの肘から先程もあり、重さたるやバーベルほどもあった。おっかなびっくり調べたサラにとって幸運だったのは、どうやら弾が入っていそうなことと、強情そうなその銃のスライドがすでに引いてあったことだった。泣きそうになりながら銃を持ち上げたとき、サラの後ろで乾いた金属の音が響いた。振り向いてサラの目に映ったのは、カタナと、その主が空しく床に転がっている姿だった。
「・・・・・う・・うぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
か細い喉からほとばしった声に続いて、太く震える銃声。銃身からひどく太い弾丸が飛び出るのを目撃した瞬間、強烈な反動がサラの両腕を軋みをあげて上に跳ね上げ、それでも足らずにサラの体を後ろのコンクリートに嫌と言うほど叩きつけた。間違いなく今度は死んだわ。サラはそう確信した。視界が突然暗くなった。

「おい・・・サラ。」
 カンベは自分の詐略に自信を持っていたが、まさかこの小娘があのオメガ使いの脳髄を”ハンマー”でたたき出すことになるとは、全く計算も予期も心構えもしていなかった。よりによって小学生でも通る女が、ミトラス軍の制式対装甲銃をぶっ放したのだ。ヌーベル・デルタのギネス協会も驚嘆、いや、決して信じないだろう。
「起きろよ。・・・・・このじゃじゃ馬。」
 膝の間にHAMMERをしっかりと握ったままのサラは、あどけないとも言えるその顔に擦り傷や埃で化粧をして壁を背に気絶していた。カンベは愉快そうに口元を歪めてサラを眺めていた。
「分かったよ、俺の守護天使様。お休みのうちに、わが東屋その2へお連れいたしましょう。」
 サラの手からHAMMERを抜き取り、気絶しているサラを抱え上げたカンベは、腿の擬体の隙間から一枚の薄布を引きずり出して頭から−サラごと−ポンチョのように被り目にバイザーをつけた。
 バイザー越しに辺りを眺めたカンベはわずかに苦しげに息を吐いた。
「天使様。ようこそ、人殺しの世界へ。」
目を一瞬落として低くそう呟いたカンベは、そのまま空気の中に溶けるように消えていった。屠殺に等しい惨状の中で、片方だけ脱げたケッズの赤いスニーカーがただ、忘れ物のようにぽつんと転がっていた。