翼のない天使(5)

「死ぬのは怖いよ。だけど、生きてゆけないのは、もっと怖いんだ。」

 やわらかな臭いがした。香ばしい焼き菓子の臭い。日向の芝生の臭い。せせらぎを流れる木蓮の花びらの臭い。柔らかい母の手の臭い。

 足にまとわりつく猫の感触にわたしは思わず笑みを漏らした。素足に猫の長い毛がくすぐったい。しきりに私の顔を窺う猫の喉をなでてやると、満足そうにごろごろと音を立てる。白一色のその猫を抱きかかえて、わたしは一面の芝生を裸足で歩いて行く。見渡す限りに広がる庭の向こうにはわたしの一家が夏を過ごす家がある。家の前では母がわたしの名を呼んでいる。お茶の時間なのだろう。もぞもぞと動く猫を抱きかかえ直して母の方へ歩く。家の中からは兄たちの笑い声が聞こえる。

 わたしはふと足を止める。手を離すと、白猫はとととっ、と何処かへ駆けて行く。頬を何かが伝って行く。その水滴はわたしの腕に落ちて、そのまま細かな飛沫になって消えた。ほんの少し前の幸せな生活。でも、これは夢だ。なぜだかわからないけど、そう解る。

「ああ。これは夢だな。」
後で聞き覚えのあるバリトンが言う。

「なぜ。」

わたしの口から声がこぼれる。

「理由など無い。」

その声は突き放すように言う。とても冷たい声。でも、その声はなんだか寂しそうに響いた。

 

 何かがカンカンとやかましく鳴る音でサラは目を覚ました。目をこすりながら不服そうに口をとがらすサラの耳に、続けて女性のかしましい声が響く。

「はい、はい。起きて下さい、カンベ様。」

それに答える声はない。更に何か金属をたたき合わせるカンカンという音がひとしきり鳴る。堪りかねたサラは、大きめの寝間着の裾を引きずりながら音の方へと這い出した。

「いったい何の音?」

寝室と続き部屋のリビングはあのコンパートメントのものではない。まるで別の風景だ。窓の外の景色は、あまり変わらぬ霧に霞んだ上海の朝だが、その窓の内側は殺風景なコンパートメントとは別物の、広々として清潔な手入れの行き届いたリビングだった。そして、サラが出てきたような寝室がもう一つあり、その入り口で鍋とお玉を持った女性が立っていた。

「あの…」

「はい?」

振り向いたその女性の姿を見て、サラは目を見開いた。

「イヴ…さん?」

「あら、サラお嬢様。申し訳ありませんわ。カンベ様の代わりに起きてしまいましたわね。」

サラより頭一つ高い位置から微笑んでいたのは、間違いなくイヴだった。

「えぇえぇぇ??どおなってるの?」

素っ頓狂な声を上げたサラは、イヴの腕や顔をぺたぺたと触った。感触はサラ自身とまるで変わらない。イヴの姿形はコンパートメントで見たホロと全く同じ。ただ大きさと存在感だけが異なっていた。

「サラ様、おやめ下さい。くすぐったいですわ。」

困惑しながらもイヴは笑みを崩さなかった。コンパートメントでの受け答えを思い出して、サラはやっと合点がいった。

「イヴさん、あなた、人間だったのね。」

サラがそう言うと、イヴは少し思案顔で答えた。

「まぁ、似たようなもの、ですわね。あとで詳しくお話しいたしますわ。その前にカンベ様を起こしてしまわないと。手伝っていただけませんか?」

「ええ。喜んで。」

サラは顔をほころばせた。

 

 サラとイヴの二人にたたき起こされたカンベが、むっつりと朝食をつまむ横で、サラはイヴからいろいろと説明を聞いた。ここが上海新市街にあるアークの一室で、カンベのセーフハウスの一つであること。イヴは普段ウェブ経由でカンベのサポートをしていること。そして、話は昨日の一件に及んだ。

「あれは私の不注意でしたわ。」

そう言うイヴにサラは慌てた。

「そんなこと無いわよ。あれは…わたしがバカだったわ。」

「そうだな。」

「……」

カンベのにべもない一言にサラは俯いた。

「カンベ様。そういう言い方は感心しませんわね。」

「…ううん。ホントにあれは私がいけなかったんだから。だから、カンベの言う通りよ。どう考えても…」

イヴは溜息をついてサラを見つめ、指でその唇を塞いだ。

「済んだことを言っても始まりませんわ。それより、これからのことを考えましょう。」

サラは黙って二人を見つめ、こくんと頷いた。

「でも、一つだけ。助けに来てくれてありがとう、カンベ。」

「済んだことだ。忘れろ。」

短く言ったカンベは食事を終えると、立ち上がろうとした。

「待って。」

「まだ何かあるのか。」

「聴いて欲しい話があるの。昨日のあの連中にも関わりのあることなの。」

座り直したカンベはサラを見やった。

「チェン・ウォンりーだな。」

「知っていたのね。」

「見当は付く。」

「そうね。当たり前だわ。気付かないはずないわね。」

「話して見ろ。」

 

 サラ、いや、ユィファの家は上海でも有数の名家だった。その先祖は大災厄よりも遙か昔まで辿ることが出来る。父は世界的な企業であるマサキ・コーポレーションの重役であり、華人の世界では知らぬ者のいない程の資産家だった。だが、それは表の顔でしかなく、裏の顔は暗黒社会・青班の顔役の一人だったのだ。ユィファはそんなことは露知らず、何不自由なく育った。特に兄三人に続いて生まれた一人娘だったためか、特にかわいがられた。

 父が20歳も若年の友人を家に連れてきたのは、5年前のことだった。仕事上のつきあいだと言うことだったが、その実は青班の若手で、その才能に父が目をかけていたのだった。その青年、チェン・ウォンリーと一家は親しく付き合うようになった。天涯孤独だというチェンは、家族の一員のように振る舞い、一家もそう遇した。ユィファにとって、チェンは憧れの相手だった。言動にそつが無く、柔和だが才に長け抜け目がない。秀才揃いの兄たちと比較してもその魅力は群を抜いていたし、チェンもユィファには良くしてくれた。10歳以上も年上とは言え、ユィファの初恋の相手がチェンだったのも無理はなかった。

 チェンが何故父と兄たちを殺し、母を手下の慰み物としたのか。それは不可解なことではなかった。チェンはただ本性を現したに過ぎない。組織同士の抗争に見せかけて父を葬り、ユィファを妻とすることで一家の資産を奪う。簡単な筋書きだった。誤算はただ一つ。ユィファがそれを知ってしまった事だ。チェンは予定を繰り上げて他の青班の主な顔役達を順に葬り去り、あるいは抱き込んで組織の全てを瞬時に掌握してしまった。そして、その全てを知るユィファを生かして置くつもりはない。カンベがあの時介入しなければ、チェンの目論見はそのまま現実となっているはずだった。

 

「一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」

サラが話し終えたあと、イヴが尋ねた。

「サラ…ユィファ様が…」

「サラと呼んで。もう、何も知らないユィファこの世にいないわ。」

「…。サラ様が生きていらっしゃると、チェンに何か不都合があるのでしょうか。」

「チェン一人が簡単に盤石の基盤を築けるほど青班は小さくない。となれば、他の青班の大物達にとってサラは、チェンに取って代わるための良い道具になる。」

カンベが突き放すように言うと、サラはびくっと震えた。頭で理解していても、恐怖が消えるわけではない。

「カンベは…何故私を護ってくれたの?私をどうするつもり?」

震えがちな瞳で、それでもカンベをまっすぐに見つめるサラ。しばらくそれを見やったカンベは、突然にやっと笑うと言った。

「ガキを放っておける性分じゃないのさ。」

「…なっ!なによぉっ!私これでも17なんだから。大学だって2つも出てるのよっ!立派なレディーなんだからっ!!」

「くくっ」

イヴが思わず吹き出すと、更に憤慨するサラ。カンベはにやにや顔で立ち上がりながら追い打ちをかける。

「本当のレディーになるまで護ってやるよ。ガキ。」

そう言って寝室へ戻るカンベを、サラは思いっきり睨み付けた。

「まったく、なんて事かしら。私は真剣なのに。」

「全く、カンベ様と来たら。あれで照れ隠しのつもりなのですよ。…ところでサラ様。この先どうなさるおつもりですか。」

イヴが水を向けるとサラは思案顔になる。

「そのことでイヴさんに協力して欲しいの。」

「どういったことでしょうか。」

サラは、決意していた。例え何を犠牲にしても、あのチェンにだけは私の家族が味わった苦しみをひとかけらも余さずに返してやる。

「青班の情報が欲しいの。誰がチェンの側で、誰がそうでないのか。誰がチェンを殺せるのか。誰が私を高く買ってくれるのか。」

「サラ様…」

「お願い。私、そのためなら何でもするわ。」

サラの消えかけていた命に、新たな灯がともった。それは「憎しみ」という名の炎だった。