その0:米内ですが組閣の大命を受けますた

その夜、彼は寝付けなかった。
昭和16年12月6日。いや、時刻は既に0時を回り7日を迎えている。何とはない胸騒ぎに、彼は寝床から起き出した。冷え切った夜気が首筋をなぜる。
まもなく。
玄関先で何か物音がしたようだ。彼の住む三年町は、霞ヶ関のすぐそばでありながらもどこか田舎の空気を残す閑静な住宅地である。夜は静まりかえり、大きな物音がすればすぐ分かるほどだ。
妻が誰かに応対しているようだ。廊下から伝わる緊迫した雰囲気。微かにふるえる妻の声と、押し殺した低く硬質な男の声。至って丁寧な響きではあるが、時折発せられる叩き付けるような威圧的な響きは軍人、それも陸軍将校のものだろうか。
ふと、彼の胸によぎったのは数年前の血腥い出来事だ。あの日も寒い日だった。5年前の2月26日。内大臣と蔵相が殺され、侍従長が瀕死の重傷を負い、首相が辛くも危機を逃れたあの日。俺は新橋で飲んだくれ、慌てて横須賀に戻ったっけ。
「あ、あなた。陸軍の方が。同行してほしいと。」
強ばった表情でふすまを開けた妻が、気丈にもしゃんと立って深夜の招かれざる来訪者を告げた。声が詰まったのは見なかったことにしてやるべきか。
「『米内は逃げも隠れもしないから、せめて正装するまで待ってくれないか』と言ってくれ。」
ひたひたと、焦燥を押さえるように廊下を戻っていく妻を不憫に思いながら、米内は嘆息した。
ああ、俺もこれまでか。陸軍にはずいぶんと目の仇にされたからな。そういえば、対米開戦云々と揉めているという話だし、御前会議が紛糾して陸さんも焦れたのかな。
軍装に着替えていると、妻がそっと戻ってきて身支度を手伝ってくれた。
「……こま。」
声を掛けると、上着を着せる手がびくりと震えた。
「剛政はもういい年だ。自分の身は何とかするだろう。加寿子、中子、尚志、それと母さんの面倒を頼む。いざとなったら山本君か井上君を頼れ。」
上着を着込んで、儀礼刀を下げる。廊下に歩き出すと、後ろから力ない足音が付いてきた。
「米内だが。」
玄関口に立つ陸軍将校に声を掛ける。直立不動の姿勢で待っていた若い大尉は、彼の顔を見ると風切り音のしそうな見事な陸式の敬礼を見せた。薄暗い電灯に照らされた軍帽に光る五芒星の下に大振りな桜葉、そして緋絨の襟章。近衛か。
「近衛歩兵第一連隊、矢部大尉であります。米内閣下、ご同行願います。」
「拒否する自由はあるのかい?」
つい悪戯心が疼いて聞いてしまう。
「何としてもご同行いただくよう厳命されております。」
誰に、と問うても無駄であろう。
「問答無用、と言う訳じゃあないようだ。なに、明日にはけろりと帰ってくるかもしれんよ。戸締まりに気をつけて休みなさい。」
安心させるように妻に笑みを投げると、彼は矢部と名乗った近衛大尉に目配せをした。
玄関を出ると、冷え切った夜風が頬を撫でた。門の前には黒塗りの乗用車が止まり、近衛の従卒が直立して待ちかまえている。
「いきなり撃たれたりしなくてほっとしたよ。」
「夜分遅くにお邪魔いたしました非礼は、どうかご容赦いただきたく。職務でして。」
横の大尉に囁くと、意外にも苦笑混じりの返答が帰ってきた。近衛といえども暴走しないとは保証できない昨今ではあるが、少なくともこの拉致は何処かかからの命令に基づいているらしい。指し示されるままに彼が乗用車の後部座席に乗り込むと、矢部大尉は助手席にその長身を潜り込ませた。
「で、何処へ行くんだい?」
「あちらです。」
大尉は北を指した。
「外務省?まさか警視庁かい?浮気のしすぎでしょっ引かれるのかね。ま、三宅坂よりは桜田門の方がましだが。」
彼が茶化して見せると、近衛大尉もニコリと微笑んで答えた。
桜田門の奥です。」




近衛の一隊に囲まれて歩みを進めた先は、緋色の絨毯が敷かれた一室であった。彼がここに来るのは初めてのことではなかった。しかしながら、一昨年に初めて招じ入れられた時と同じく、奥の席には線の細い盛装の人物が鎮座ましましていた。
「朕、卿に組閣を命ず。」
その甲高い声は、あの日の大命と同じく彼の耳朶を雷鳴のように打った。
「卿の任は米英との和平である。軍の批難は全て余が黙らせる。よろしく頼む。」
甲高くはあるが、確信と迫力に満ちたその声に、彼はは黙って頭を垂れるほかに術を持たなかった。