その1:受諾を公表しますた

政変。その噂はすぐさま市井を駆けめぐった。
曰く、近衛師団が宮城の周囲を厳戒警備している。東条首相始め閣僚が全て招集された。東京憲兵隊も動いている。海軍や陸軍の将官が何人も拘禁された。
表立った動きや争乱は何もないが、明らかに何かが動き出している。すわクーデタか、と二・二六事件を思い出した人間も少なくはなかった。
昭和16年12月7日深更。東条英機陸軍大将首班の内閣が総辞職し、後任に米内光政海軍大将を親任する旨の発表があり、巷間には様々な憶測が流れた。なにしろ、10月に東条内閣が組閣したばかりである。短命にもほどがある。誰もが、政権中枢で大変動が起こったことを感じた。

明けて12月8日朝。近衛師団の護衛の下、首相官邸にあわただしく現れた米内大将以下数名の閣僚は、その足で記者クラブへと直行した。
記者クラブには、朝日新聞東京日日新聞、読売新聞といった大新聞の記者の他、AP通信、ロイター通信、タス通信、同盟通信といった通信社の記者も大勢集まっていた。彼らは、緊急の声明があると聞かされて急遽詰めかけていた。
室内に米内首相以下軍服やモーニングに身を包んだ閣僚達が入ってくると、記者はどよめいた。全員が正装であり、明らかに親任式直後にここに現れたと見て間違いない。通例の写真撮影さえまだ終わっていないのだ。
「お集まりの諸君には、急なことで申し訳ありません。だが、非常に重要な声明なので一刻も早く伝える必要があるのでね。まずは新閣僚を紹介しましょう。」
着席もしないまま、米内は慌ただしく口火を切った。そこに並んだ顔ぶれは異様であった。
首相・米内光政、内相・岸信介、外相・重光葵、蔵相・結城豊太郎陸相小磯国昭海相山本五十六。それ以外のメンバーは東条内閣から留任している。
首相、外相、陸相海相全てが、リベラル派で親米英的立場の人間である。岸信介は右派であると目されているが、どちらかといえば財界に基盤を置いた反共主義者であり、結城豊太郎は長く日銀総裁を務めているが政治的な色は薄い。
やもすると対米宣戦布告の発表ではないかと考えていた記者達は、完全に肩をすかされた形となった。この顔ぶれは、外交方針の大転換を意図したものであることは素人目にも分かる。
紹介を手早く済ませ着席すると、米内は改まった口調で話し始めた。
「さて、本日諸君に、帝国臣民に、そして諸外国の人々にお知らせしたいのは、我が国と米国の間でもたれた交渉についての話です。」
米内に促されて、外相の重光がこれまでの日米交渉について説明を始める。
昭和15年の北部仏印進駐、そして昭和16年7月の南部仏印進駐。欧州情勢と日中間の戦争に起因するこの事件以降、日米は対立を深めていた。危機を回避すべく両国間で交渉が持たれたが、結果から言えば不調に終わり、米国政府は11月20日最後通牒とも言える『合衆国及び日本国間の基礎概略(Outline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)』を手交するに至った。その内容は大日本帝国にとって恐ろしく厳しい内容であった。
開戦か屈服か。その結論は12月1日に一度下されたが、急遽覆されることとなった。
「我が大日本帝国は、米国国務省より提示された以下の条件を受け入れる用意がある。」
外相の説明を受けて米内がさらりと言葉を置くと、空気がしんと静まりかえった。
「条件とは、一つ、日米両国は英連邦、中国、オランダ、ソ連、タイ国との間に不可侵条約の締結に努める。一つ、日米両国はフランス領インドシナの領土主権について英中蘭泰各国間との協定を結ぶべく努める。一つ、大日本帝国は中国及びインドシナから一切の軍事力及び警察力を撤収する。一つ、大日本帝国重慶中華民国国民政府を中国における唯一の政権として承認する。一つ、日米両国は中国における一切の特殊権益を放棄し、その他の各国においても同様の措置を執るよう外交努力を行う。一つ、日米両国は関税における相互的互恵関係と通商障壁引き下げについて合意すべく協議する。一つ、日米両国は双方における資産凍結を解除する。一つ、日米両国は円ドル為替相場の安定について協定を結ぶ。一つ、日米両国は太平洋地域における平和を実現する障害となる、他の第三者とのいかなる協定をも結ばず、既定のそれについては破棄する。」
下りる沈黙の帳。理解を超えた事態に呆然とした記者の中から、一人が声を上げた。
「……首相、それはどういう事態を意味するのでしょうか。」
厳粛な面持ちでありながら、どこか力みの抜けた自然な声で米内は答えを返した。
「かいつまんで言いましょう。米国との協議が成立すれば、大日本帝国重慶政府と講和し仏印を含む大陸より撤兵、全ての権益を放棄する。ドイツ・イタリアとの三国同盟も一方的に破棄する。」
応えるもののいない恐ろしいまでの沈黙。
「つまり、我が国は抗わずして米国に膝を屈するということです。」
その瞬間、前列の席を占めていた新聞記者達が一斉に声を上げた。
「父祖が血を流して得た権益を恫喝されて放り出すのか!腰抜け!」
「奸賊!」
「それでも首相か!恥を知れ!」
統帥権の干犯だ!」
火のついたような怒号。立ち上がり詰め寄るものを、近衛師団の兵士が取り押さえる中、米内は静かに立ち上がった。
「静かにしたまえ!!」
一喝。
室内を聾する大音声に、全員が言葉を失った。
スマートなサイレント・ネイビーの体現者であり、かつて首相在任中も極端に演説が短かったことで知られるほど無口なこの男の、どこにそんな声量が眠っていたのか。
室内が静まりかえるなか、米内は秘書官から包みを受け取り、押し頂いてからおもむろに紫の袱紗を解いた。その袱紗には金色の菊花紋が縫い取られている。
「いやしくも私は、首相である以前に陛下に仕える海軍軍人である。この決断によって、我が国が列強の一員から米国の手先に転落することぐらい誰よりも良く分かっている。軍人として、いや、一人の日本人としてまさに断腸の極みだ。」
落ち着いた、だが、断固とした口調で米内は語り始める。
「だが、昨日私に組閣の大命を下されたあと、陛下はこう仰せられた。」
『米国と戦争となれば、未曾有の被害がもたらされるだろう。我が軍の奮闘を疑うものではないが、20倍もの国力を持つ強国との戦いはいずれ、100万、200万もの臣民を死に至らしめるであろう。臣民は我が赤子である。可愛い我が子の死を願う親があろうか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、大国としての誇りを捨てても我が子を守るのが朕の務めである。』
「私が国賊と罵られようと、亡国の徒と蔑まれようと全て甘んじて受けよう。だが、陛下の深甚なる御心を疑うことは断じて許さん。」
そう言いながら、米内は袱紗から取り出した書状を開いて見せた。そこには、白地に丁寧な墨書で『詔勅』と書かれていた。
日本人記者達から上がるどよめきに、外国人記者達はとまどいの色を見せる。米内が英語で『天皇の勅命書です。』と告げると、外国人記者席からも驚きの声が上がる。
「怒鳴ることしか出来ぬ者は退場したまえ。きちんとした取材をしたい者は残りなさい。質問なら受け付けましょう。」
落ち着いたトーンに声音を落とすと、もう一度書状を押し頂いて包み、米内は席に着いた。
「日本は、自ら列強の地位を捨てるということですか。」
「望んでのことではありませんが、米国との戦争を回避することを最優先とした、ということです。米国との戦争によって失われる命は軍人だけでは済まないでしょう。富は失ってもまた築ける。だが、一度失われた人の命は決して戻ってはこない。」
「独伊との同盟を反故にされると。」
「信義に反することであるのは重々承知です。独伊両国の皆さんには裏切り者と罵られることでしょう。しかしながら、ドイツ第三帝国独ソ不可侵条約並びに独ソ無断開戦と、一度ならず二度も我が国をツンボ桟敷に置いている。その点が、今回の判断に影響を与えていることは否定できないでしょう。」
主として欧米通信社記者と数度の応答の後、米内は立ち上がった。
「なお、この回答はこの後、駐米大使より米国国務省に手交される予定です。我が国は、本年12月31日までの回答を求めております。交渉が開始され次第、仏印の保障占領は即座に解除し我が軍は撤兵を開始します。万が一交渉開始の回答が得られない場合でも、我が国の安全が脅かされない限り、我が国は米国に対する開戦を企図することはありません。」
言葉を切った米内は、真剣な表情で記者一同を見つめた。
「最後に、この場を借りて米国政府並びに米国市民の皆さんに御願いしたい。我が国はただ平和を望んでいます。そのためには、いかなる外交的妥協にも応じる用意があります。しかしながら、先に提示された条件を受け入れることは外交上の問題だけではなく、日本の経済に壊滅的な影響をもたらすことになる。最悪の事態では2年以内に数十万人の餓死者を出す可能性があるとの予測も出ています。何卒、より寛大な条件での交渉妥結をご考慮いただきたい。」
大日本帝国第41代内閣総理大臣は、その長身を深々と折った。


明けて昭和16年12月9日。
前日の記者会見と声明によって混乱、いや襲撃が予想されるため、首相官邸には近衛師団と東京憲兵隊によって厳戒態勢が敷かれていた。しかし、警戒ぶりが功を奏したのか、それとも未曾有の事態に茫然自失としているのか。叛徒どころか群衆の姿もない。
不自然なほど静かな官邸の執務室で、米内はソファに腰掛け、ある男と向かい合っていた。目の前のテーブルには、朝刊紙が数紙並べられている。一面に並ぶ見出しには、どれも極大サイズの活字が踊っている。
"対米開戦すべし"
"御聖断による和平の実現を"
"交渉の推移を注視す"
一番激しい論調を掲げているのは朝日新聞。逆に穏やかな支持を打ち出しているのは読売新聞。東京日日新聞は慎重な態度を取っていた。
「本当にこれでいいのか、と思っておられますか。」
沈黙しながら新聞の見出しに目を落としていた対面の人物に、米内は声をかけた。生真面目そうな顔立ちに丸眼鏡、そして口ひげ。短く刈り込んだ髪の下で、眉が二つ眉間に寄っている。
「陛下がお決めになったことに異存はない。私はただ、軍人としての務めを全うするだけだ。」
忠誠心と権勢欲の葛藤なのだろうか。新たに常設が決まった大本営主席参謀長に補された男、東条英機は呻くような声を上げた。
陛下、か。
米内は一昨日の出来事を振り返った。

「簡単に言おう。私は未来を知っている。」
突然の首相指名に呆然とする米内に、天皇陛下は畳み掛けるように衝撃的な言葉を続けた。
マレー作戦、真珠湾攻撃、フィリピン占領。東京初空襲、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ソロモン海海戦、ガダルカナルの戦い。山本五十六の戦死、学徒出陣。インパール作戦大陸打通作戦サイパンテニアン、グアムの玉砕。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦。神風特攻隊、硫黄島の戦い、沖縄戦、菊水作戦。東京大空襲、原爆投下。ソ連参戦、そして降伏。
虚言や妄想と言うには、あまりに断定的な口調で、天皇陛下は3時間にも及ぶ長広舌をふるった。
「我が国は、二百万人を越える戦死者と八十万人もの一般市民を失い、そして本土の主立った都市を焼かれて敗北した。1939年から1945年まで、世界中で六千万人もの人間が死に至った。」
連合軍による占領。朝鮮戦争特需による復興。冷戦。高度成長と繁栄。
次第にかすれ疲労の色を帯びる声で、天皇陛下は語り続けた。その長い物語は、沖縄の復帰と中国との国交正常化まで語られた。
「なぜ、陛下におかれましては斯様な、その、未来の出来事をご存じなのですか。」
圧倒的な未来予測の言葉に押しつぶされそうになりながら、辛うじて米内は疑問の言葉を絞り出した。
「わかるから、としか言いようがないのだ。理由を述べても、卿は信じまい。ただ、私の言うことを信じて貰いたい。頼む。」
表情に疲労を色濃く除かせながらも、その視線には揺るぎない決意に満ちているように見えた。
「……信じます。陛下は虚妄を仰るような方ではございません。臣として陛下をご信頼申し上げます。」
「ありがとう。」
陛下は、静かに頭を下げた。
「それで。私はどうすればよいのでしょうか。」
「何としても、米国との戦争は避けねばならぬ。例え、国を二つに割ることになったとしても。そのために必要なことは、あらゆる手段を許す。」
天皇陛下は、断固とした口調で言った。
「……かしこまりました。謹んで大命をお受けいたします。」

「陛下のために、日本のために。何としても和平を成し遂げなくてはなりません。東条閣下、どうか軍を御願いします。」
米内が深く頭を垂れると、東条は微苦笑を浮かべながらも頷いた。
「私と閣下、二人で汚名を被るも一興か。『大君の辺にこそ死なめ』ですな。」
確かに二人とも、もはや省みる余地はなかった。その道がどこに続くにせよ、止まることはできないのだった。


「この文書を手交することは、誠に複雑な心境です。ハル国務長官閣下。」
野村大使は、言葉通りに怒りと悲嘆と安堵と諦観が入り交じった表情で、アメリカ合衆国国務長官執務室の主、コーデル・ハルを見つめた。
「と、仰いますと。」
ハル国務長官もまた、きわめて複雑な表情を浮かべていた。罪悪感と後悔、安堵、そして不安。
大日本帝国海軍軍人・野村吉三郎としては、屈辱以外の何物でもありません。我が日本は、万世一系の御代が続く限りこの恨みを忘れることはありますまい。」
「……。」
さらりと野村が口にした言葉は、ハルの心に重くのし掛かった。
「ですが、外交官・野村吉三郎、そしてただの人間・野村吉三郎としては、ただただ安堵の限りです。これで、無辜の人間が無意味に死なずに済む。」
「……そうですな。」
安堵と諦観。安堵と後悔。少なくとも、両国間で悲惨な戦争が回避された事だけでも喜ぶべき事なのかもしれない。例え、合衆国の要求が挑発に満ちた過大なものであったとしても。
「では、閣下。駐アメリカ合衆国大日本帝国大使として、正式な回答を申し上げます。先日貴下よりご呈示いただきました条件に基づき、大日本帝国は交渉の席に着くことを是と致します。しかしながら、いくつかの条件につきましては、何卒寛大なるお心にて緩和願いたいとも考えております。正式回答文書を手交いたします。」
「確かに、受け取りました。」
二人の間で、書簡が手渡される。既に内容は外電で聞いている。明日のタイムスもポストも、一面でこの内容を伝えるだろう。嫌でも受け取らざるを得ない。
この奇襲攻撃は、ルーズベルトを激怒させることだろう。いや、既に執務室で怒鳴り声を上げているらしい。立場上不味い感情ではあるが、ハルはこの幕間劇を演出した人間に心から拍手を送りたい気分であった。
国民の反応はまだ判らないが、少なくとも頭を垂れた相手を打ち据える合衆国大統領は、決して後世に美名を残さないだろう。
外交信義を欠くやり方ではあるが、日米開戦を避けるためには効果的なやり方だ。
「では、失礼いたします。」
「……ミスター野村。」
肩の荷が下りたのか幾分表情の和らいだ野村大使は、一礼して退室しようとする。ハルは、それを呼び止めて近づいた。
「なんでしょう?」
戸惑う野村に、周囲のスタッフに聞かれぬよう素早く耳打ちする。
「回答は恐らく遅れるでしょう。その間、どうかお国の方々にはくれぐれも軽挙妄動を慎まれるようお願いいたします。」
「それはいかがな意味でしょうか。」
同じく小声で返す野村に、ハルはその目を黙って見据えた。ルーズベルトが戦争を欲していることは、お互い了解済みである。そして、ルーズベルトは自ら戦争を始めることができない。相手に最初の銃声を上げさせなくてはいけないのだ。
それらは決して口に出すことはできない。
「……申し上げられるのはそれだけです。我々は今、自らの忍耐力を試されています。」
誰によって、とは野村も聞き返しはしなかった。ハルの真剣な視線は、口に出せぬ何かを必死に伝えようとしていた。それはあたかも、ひたすら奇跡を願う戦地の兵士のようであった。