その3:南部仏印から撤兵しますた


ルーズベルト倒れる」
ワシントンポストに掲載されたその記事には、大統領の病状について事細かに書かれていたが、後任大統領については二の次とばかりに控えめに書かれていた。
「後任はウォーレス副大統領」
その一文を読んだ市民の反応は、以下のようなものであった。
曰く、農業は分かるだろうが外交は分かるのか。
曰く、ウォーレスで大丈夫なのか。
曰く、そういえばそんな人がいたね。
人々は皆、新たな大統領を「豪腕大統領の影で働く農政の実務派」としか見ていなかった。
ヘンリー・アガード・ウォーレスという名の人物を、過去の実績で判断するならば、それは正しいだろう。中西部アイオワ州出身の彼は、農業学者であり成功した農業事業家でもある。ルーズベルト政権に農務長官として入閣して以来、ニューディール政策における農業分野を支えてきた実務派である。
しかし、彼のリーダーシップや国際情勢への姿勢については、未だ世間の知るところではなかった。
「私は、絶対に戦争をしないよ。」
大統領就任の宣誓式を終え、執務室に集まった閣僚たちを前に、ウォーレスは高らかにそう謳った。
「今優先するべきは何か。もちろん、旧世界を始めとした世界を覆わんとしている戦火を座視して眺めることは好ましいことではない。だが、それ以上に我が国は完全な経済復興を急ぐべきだ。」
自信に満ちた表情で、新大統領はそう語る。
「合衆国は、これ以上戦争をする必要はない。世界で唯一と言っていいほど、戦争から隔絶することを許された国、それが我が合衆国だ。ならば、この優位を徹底的に活用するべきだ。世界が戦争に疲弊して希望を失ったとき、最後に残った灯台として世界を照らすことこそ、我が合衆国の役割だ。ちがうかい。」
その声に、表だって反発する声はない。なにしろ、スティムソンもノックスも、あるいはモーゲンソウも、戦争へと突き進むルーズベルトを止めるために、クーデタまがいの方法を採ったのだから。
「具体的にはどうするつもりだ。」
「コーデル。」
ウォーレスが、国務長官に説明を促す。この政権で、実質的な舵取りを期待されている実務者は、コーデル・ハルにほかならない。
「我が国に必要なのは、我々の生産力を受け止めうる市場だ。それを手に入れればいい。」
「中国かね。」
海軍長官ノックスが問いかける。もちろん、日本と衝突してきた焦点こそが中国だ。その市場は合衆国にとって必要不可欠だと見る向きは多い。
「もちろん中国も視野に入れる。だが、我々はフィリピンで学んだはずだ。民度の低いアジア人には、我々がもっとも売りたい工業製品を買い入れるだけの資金も、買い入れて使いこなすだけの需要もない。」
「では、ヨーロッパか?」
「ヨーロッパには、十分に市場を持ちうる相手が二つしかない。イギリスかドイツだ。イギリスには既に支援物資を送っているし、ドイツを助けることは出来ない。ドイツがヨーロッパの覇者になれば、合衆国の優位性は崩れる。」
「では、どこなんだね。」
「ヨーロッパではなく、民度も資本もそこそこにある国があるだろう。」
「……日本、か。」
「我が国は日本へ製品と食料を売る。日本は中国へ製品を売る。フィリピン、インドシナ、タイを中心に、マレー、インドネシア、オーストラリアも間接的に市場に組み込む。つまりは『太平洋ドルブロック』だ。」
「それで、日本は納得するだろうか。」
「納得させるさ。彼らも、中国相手に12ラウンド撃ち合って懲りたというわけだ。乗ってくるよ。だろう、コーデル。」
新大統領の確認に、国務長官は確信を持って頷いた。
「和平の条件を緩めてヨナイを追い詰めさえしなければ、確実に。」


しかし、イエロー・オーバル・ルームの面々の思惑とは別に、声を大にして戦争への喚声を上げている者達もいた。
「彼らは26年前と同じ過ちを繰り返した!」
キャピトル・ヒルで叫んでいる、まだ40前の若い男の名はヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア。
「アキタニア号とともに極寒の大西洋へと投げ出された合衆国市民は411名。411名の命が奪われたのだ。」
外交畑で活躍した上院議員、ヘンリー・カボット・ロッジの孫である彼は、マサチューセッツ州選出の上院議員であり、祖父と同様外交問題に深くコミットしている若手政治家である。
「ドイツの脅威は、既に海を越えて我が国にも迫ってきている。この戦争は対岸の火事などでは決してない。それを、アキタニアの411人は身をもって我々に教えてくれたのだ。」
信念と怒りに支えられた青年議員の荒削りな言葉は、議席を埋める議員たちの心を確かに打った。
「我が国は一刻も早くドイツ第三帝国、いや、ヒトラーの血に塗れた野望を阻まなくてはならない。ソビエトが敗れ、イギリスがその膝下に屈したとき、その次の標的は疑うことなく我が国、アメリカ合衆国である。ヨーロッパを席巻し、ユーラシアを制したドイツに対して、我が国はただ一人孤独な戦いを強いられることになる。そして、世界はナチズムの絶望世界に覆われる。諸君はそれでいいのか!我らの子や孫に、そんな暗黒の未来を残そうというのか!それが世界の選択か!」
「否!」
共和党だけでなく、民主党の議員からも青年議員の呼びかけに答える声が上がる。それは、前任の大統領によって盛り上げられていた参戦機運が、漸く実を結びつつあった証左である。
程なくして、合衆国上院はドイツへの経済制裁決議案と、対ドイツ宣戦布告を含めた戦争への介入を大統領に勧告する決議案を、賛成多数で採択した。
新任の大統領は、後者の決議案に対してすぐさま拒否権を行使した。
図らずも、大統領は就任直後にその所信を明確に表明する機会を得たのだった。


仏印からの撤退は既に進んでいます。もっとも、現地の政庁では大いに迷惑しているようですが。」
「自由フランスの承認を得て、合衆国軍と英軍が少数ですが保障進駐することになっています。」
「そうですか。どちらにしろ、それは我々の関知するところではありませんな。シンガポールとの海運に必要な寄港地さえあれば済む話ですから。おい、キミ。大陸の陸軍の展開状況、最新のものが来ているはずだ。もってきたまえ。」
60過ぎでありながら、豊かな声量と衰えぬ迫力で、男は傍らの外務省職員に横柄に顎をしゃくって見せた。外務省職員は、強ばった表情でその指示に従う。
「それで、ミスター・ハル。諄いようだが、最終的な線引きはこれで間違いないですな。」
男は、目の前の机に広げられた地図を指して、念を押した。
台湾と南沙諸島、内南洋、南西諸島から北海道までの本土、樺太南部と千島列島、そして朝鮮半島。それが日本の本土として認められた範囲である。加えて、満州国も存続を認め、関東州は満州国に帰属する。要するに、満州を除く中国とインドシナから手を引けば、残りの権益を認める、というのが米側の提案であった。それは、日本の新政権においても基本方針に合致する内容であったと言える。
「ええ、ミスター・ヨシダ。我が国は貴国の領土について、中国及びインドシナを除く範囲で従来の主張を認め、加えて実行支配権の不明であったスプラトリ諸島への日本の領有権が正当なものであると認めます。また、満州国については日本軍の段階的撤退を条件に英国と共に承認し、独立を保障します。また、禁輸制裁措置や在合衆国日本人や日系人に対しての資産凍結を直ちに解除します。」
いつぞやの"覚え書き"とやらと比べて、随分トーンダウンしたじゃないか。そう思っても、おくびにも出さない。にこやかな表情を維持したまま、全権特命大使・吉田茂は右手を突き出した。
「我が国政府も、この条件であればなんとか国民に飲み込ませることが出来るでしょう。少なくとも、例の条件をあまり表に出さなければ。」
「そう期待したい、いや、そうでなくては困ります。」
コーデル・ハル合衆国国務長官は、しっかりとその手を握り替えした。


「大統領閣下。この席において両国の平和に新たな節目を付け加えることが出来、大変光栄に思っております。」
「首相閣下。私も、今日という日が両国の更なる繁栄の礎になると信じております。」
日本国総理大臣・米内光政と、アメリカ合衆国大統領・ヘンリー・アガード・ウォーレスは、オアフ島ホノルルに置かれた軍港、パールハーバーにおいて文書を交わした。彼らの前には、その調印式を見守るように二隻の戦艦が肩を並べていた。方や、籠マストの下に12門の14インチ砲を備えた戦艦アリゾナ、もう一方は、同じく14インチ砲を8門備える高速戦艦榛名である。その姿こそ対照的ではあるが、ともに艦齢20年を越える姥桜同士であった。米内のハワイ訪問に際して、榛名及び霧島の二戦艦を中心とする高速艦隊が臨時に編成されて内閣総理大臣の警護に当たっていた。そして、この二隻の艟艨は歴史的な合意の場を見下ろすことで、両国が一見、対等な立場で交渉に臨んでいるかのような錯視をもたらすことに成功していた。
互いに調印した文書には「太平洋の平和を実現するための日米包括提携に関する基本文書」と記されていた。それは実質的に、アメリカ合衆国を中心としたドル経済圏の成立を意味すると同時に、世界を二つに分けた8年にも及ぶ最終戦争の遠因となる文書であった。
1942年1月19日。「ハワイ合意」と後に呼ばれるアンタンテが日米間に結ばれた。


「本当にやるんだな。」
「もちろんだ。君側の奸を除かねば皇国に未来はない。」
年明けと共に太平洋に平和が訪れようとしているとき。雪の降り積もる東京には、また新たな血が流れようとしていた。