うちにおいでよ(1)

「あー、くそ。降ってきやがった。」
フルフェイスのヘルメットの中で呟くと、吐き出した息でシールドが一瞬曇った。
透明なプラスチックの向こうには黒々とした雲がたれ込めていて、見る間に数を増やした水滴が視界のあちこちで弾けた。
単車のタイヤが伝えてくるまだらに色を変えるアスファルトの感覚も次第に頼りなくなってくる。
自宅マンションまではまだ4km近くあるだろうか。
雨に濡れていつもにましてライムグリーンが目に鮮やかな愛車を慎重に導いてマンションの地下駐車場に入る頃には、雨脚は土砂降りに近くなっていた。
ヘルメットを脱いで一息つくと、雨と土埃の混じった独特のにおいがする。
微かに聞こえる遠雷が夏の訪れを予感させた。
「あーあ。パンツの中まで濡れちまったぜ。」
身体のあちこちにへばりつく濡れた服に閉口しながらエレベータで上に上がる。
荷物はアルミのブリーフケースに入れているから濡れる心配はないが、夕立の季節に単車は確かにうかつだった。明日からは車にしよう。
そんなことを考えているうちにエレベータは最上階につき、微かな揺れとともに扉が開いた。
オレの部屋は廊下の一番奥なのでエレベータからは一番遠い。
廊下にポタポタとしずくを垂らしながら部屋の前まで来ると、扉の前に何かがうずくまっていた。
一抱えもある古びたトランクに座ってしょぼくれた雰囲気を漂わせていたその人物は、パッと顔を上げてオレを見た。それは、本当に久しぶりに見る顔だった。

「あれ?ヒャクメじゃないか。どうしたんだ?」

「ヨコシマさん……ぐすっ、よ〜こ〜じ〜ま〜ざ〜ん〜!!」

おれが声をかけると、仮にも神界に籍を置く女神様はなんとも情けない声を上げて抱きついてきたのだった。



うちにおいでよ 第一話



「コーヒー入れるからちょっと待っててな。っと、悪いけどその前に着替えてくるわ。」

リビングに案内してクッションを勧めても、ヒャクメはまだぐしゅぐしゅとべそをかいていた。
着替えに立とうとすると、シャツの裾をつままれてしまった。潤んだ瞳でこっちを見つめながらふるふると首を振る。

「オレ、びしょぬれだからさ。すぐ戻ってくるから、な?」

出来る限り優しい声で、軽く肩を撫でながらそう言うと、ヒャクメは渋々とシャツを放してくれた。
パウダールームでバスタオルを取り出し、寝室で手早く着替える。めんどくさいのでトランクスにTシャツとスウェットのズボンだけ。客の前に出る格好じゃないがとりあえずはカンベンしてもらおう。

「コーヒーでいいよな?一応お茶もあるけど……」

ケトルに水を入れてクッキングヒーターに載せながら聞いてみるが返事はない。
リビングの方をちらりと覗くと、ヒャクメは相変わらず俯いてぐすぐすいっている。

いったい、どうしちまったんだか。

ヒャクメと会うのは本当に久しぶりだ。
高校を卒業するちょっと前に美神さんの事務所で一回会ったきりでそれ以来交流は途絶えていたから、もう5年近く会っていない計算になる。
あの事件のあと神界も魔界も後始末に大忙しだったらしいし、オレも浪人したり受験したり大学生活に精を出したり何かと手一杯だった。年に2回妙神山に顔は出していたが、ヒャクメとは顔をあわせる機会がなかった。
考えてみれば、ヒャクメは神様でオレはしがないアルバイトGSの学生に過ぎない。一緒に平安時代にいったりパピリオにとっつかまったりしたけど、もともとそんなに接点があるわけではないのだ。
ヒュー、と音を立て始めたケトルを取り上げ、ドリッパーの中に湯を注ぐ。豆をちょっと蒸らしたあと少しずつサーバに落としていく。サーバから大きめのマグカップに注ぐ。一人暮らしも長くなると、こういう細かいことも覚えるもんだ。

「ミルクと砂糖入れるか?」

一応聞いてみるが返事がない。しょうがないので袋入りのポーションミルクと箱入り角砂糖を持って行く。オレは使わないが、時々友達が来たりするので常備しているのだ。

マグカップをテーブルにおいても、ヒャクメは手を出そうとしない。
さすがにそろそろ泣きやんでくれたみたいだが、相変わらず俯いたままだ。

「コーヒー嫌いだったっけ?美神さん所ほどじゃないけど、これでもちょっといい豆使ってるんだぜ。一口でいいから飲んでみてくれよ。」

オレが勧めると、ヒャクメはおずおずとマグカップを両手で抱えて一口すすった。

「あつっ」

「ミルク入れるか?」

「……うん。」

「よーし、奮発して2個入れてやろう。砂糖は?」

「じゃ、ちょっとだけ。」

マグカップに冷えたミルクを2個注いで、角砂糖も2個入れてやる。

「ほい。」

「ありがとなのね。……おいし。」

ゆっくりとマグカップに口を付けたヒャクメは、弱々しくだけどちょっとだけ微笑んだ。

「……やっと口聞いてくれたな、ヒャクメ。」

「え……そうね。エヘヘ、あの、その……ちょっと泣いちゃったのね〜。」

そういって照れ隠しなのか目をゴシゴシ擦る。ティッシュを箱ごと渡してやると、また「エヘヘ」と笑ってヒャクメは涙を拭いた。

ちょっと落ち着いたみたいだし、事情を聞かなきゃな。さてどう切り出したもんか。
なんとなくお互い黙ってコーヒーをすすっていたが、ヒャクメはきょろきょろと辺りを見回し始めた。

「それにしてもヨコシマさん、ずいぶんいい部屋に住んでるね〜。」

「ああ、大学に入ったときに買ったんだ。もう4年前だけどな。」

都心からはちょっと離れているが、一応都内の住宅地に建つ分譲マンションの一室だ。最上階だから眺めもいいし、2LDKは独り者が住む分には十分すぎる広さだ。高校の時に住んでたあの部屋とは較べものにならない。

「でも、よくそんなお金あったのね?」

「美神さんが給料を歩合制にしてくれたからなぁ。そこそこ収入あるんだよ、今は。ま、その分扱き使われてるからまだ大学卒業できんけどな。ハハハ。」

実際には数%程度しかもらっていないんだが、それでも年間ん十億と稼ぐ美神除霊事務所の給料は下手な一流企業に勤めるより遙かにいい。去年の確定申告は累進課税のせいで危うく税率5割に突入するところだった。控除やら何やら美神さんに教え込まれたおかげで随分節税できたが。

「それにしても、よくここが分かったな?パピリオだって来たこと無いのに。」

「え、えーっと。小竜姫にきいたのね〜。」

といいつつ、なぜか目をそらす。

「んー、そっか。んでさ。いきなりオレの所に来たりしてどうしたんだ?」

「ふえ?………う、ぐす……そ、それが……ふぇ〜ん!」

さりげなく聞いたつもりだったんだが、どうやら地雷原だったらしい。

「あ〜、あのな。泣くなって。……な?何でも相談に乗ってやるからさ。昔と違って金の相談だってちょっとは乗ってやるぞ?な、ほら、泣くと美人が台無しだろ。」

子供みたいに泣いているのを見ると、つい放っておけなくなる。
ティッシュで涙を拭いて赤くなった鼻を軽くつまんでやると、ヒャクメはちーんと鼻をかんだ。

「で、なにがあったんだ?」

「……ヨコシマさん、わたし神界から追放になったのね。」

「……は?」

「覗きがばれてクビになったの〜!もうどこにも行く場所がないのよ〜!お願い泊めて〜〜!!」

「……はぁぁぁっっ??」

こうして、オレと元女神様との奇妙な同居生活は始まったのだ。