龍狩人(1)

第1章 坑道の小戦姫

第1話

 オルザンク山と言えば、大陸西方のヨロテア地方の中でも最も西に位置する峻厳な霊峰であり、昔は行者や導師の修行の場として知られていたものである。しかし、”滅びの日”と呼ばれる天変地異の結果、三方を切り立った崖に囲まれる半島になった上、小規模ながら噴火も起こったため、今では人跡も絶え、すっかりと野生の王国と化していた。
 そんな、人も通わぬ道無き山中を、今一人の少女が黙々と歩いていた。身の丈は4尺5寸程度だが、玄武岩の露頭を踏みしめて歩く足取りはしっかり、ゆったりとしており、並々ならぬ鍛錬の様を窺わせる。背には定寸を遙かに超える3尺もの大太刀を担ぎ、全身を薄い墨色の衣で覆っている。頭を覆った薄布から覗くその容貌は、白く端正な一見人形めいた美しさをたたえる中、額を覆う艶やかな銀髪の下で二つの碧い瞳だけが炯々と光を宿していた。
 彼女は、かんかんと照りつける日差しをものともせずに、一心不乱に岩場を上り続ける。盛り上がる手足の筋肉と、躍動する乳房と臀部の肉付きは、少女というよりは鍛え上げられた成年女性のそれだ。全体的に小作りであることを除けば。
 白い顔を上気させて岩山を登り切ると、彼女は辺りを見回して足を止めると、忌々しげに足下を2度3度と踏みつけた。薄赤色に染められた米粒の山が蹴散らされ、小さな飛沫となってあたりに飛んだ。
「いったい、どうなっているの。この山は!」
 彼女がとある手がかりを元にこの山系へと踏み入って数日。肝心の人物を捜し当てるどころか、完全に迷子になる始末。今も、自分が残した目印を見つけ、いらだたしさに声を上げずにはいられなかった。
「これは、結界か……。」
岩に腰を下ろし、あたりを見渡す少女の目に映る景色は、数日前と全く代わり映えのしない岩とわずかな草花の景色だ。登り続けているにもかかわらず、一向に植生が変わる様子がない。これまで気づかなかったが、どう考えても人返しの結界が張られていると考えるほか無い。
「どうやら、全くの外れではないみたいね。」
結界にいいようにあしらわれていたことに怒りは感じるが、逆に考えれば、結界を張って何かを隠したい人間の意志が確かに存在する証明でもある。全くの無人の山中を無為に彷徨っていたと考えるよりは、僅かでも慰められる結論である。
 いつの間にか、あたりを照らす光は西日になり、少しずつ赤みを増していた。ふぅ、と一つため息をついた彼女は、どこか横になれそうな岩陰を探し始めた。結界の対策を考えるにしても、行動するのは明日にしよう。今日はもう十分に疲労を蓄積してしまっている。問題の人物を捜し当てるまで長丁場になりそうだ。
「……どうせ、このまま帰るわけにはいかないのだし。」
ふと漏れた独り言は、あたりを赤く染める光に吸い込まれて消えた。


 闇の帳が落ち、山は虫の鳴き声と風になびく草木のざわめきに満たされる。毛布に身を覆い横たわる少女が眠りに落ちる姿を、僅かに離れた岩の上から見下ろす影が一つ。
 長身痩躯に腰まである黒髪、そして、少女を静かに見据える瞳。黒い瞳には12色の光彩が散らばり、不思議な輝きを湛えている。そこにあるのは穏やかだが、決して和かではない表情。
 どこか虚無を宿したそれは、醒めた眼差しで少女をしばし眺めた後、夜の闇に再び消えた。


 結界の存在に気づいてから、さらに3日が過ぎた。
 あれから彼女は、人返しの結界を形成している呪印を一つ一つ虱潰しに潰していった。結界を破らずに抜けたり、結界自体を無効化する術は知らなかったが、戦向きの術を覚えるために囓った魔術が幸いしたか、呪印自体を見分けることはできた。しかし、その数が半端ではなかった。一日目に14個、二日目に36個、三日目には15個を壊し、まだいくつか呪印は残るものの結界の効力はようやく失われた。その間食糧は尽き、水こそ小川を見つけて補給できたが、歩けば歩くほど空きっ腹に響くようで、少女は幾分うつろな表情で歩みを進めていた。
「……これで、もう一段、結界でも、あれば、行き倒れて、山猫の、餌、確定だわ。」
 荒い息の間から漏れる自嘲の言葉も、かすれ気味で弱々しい。もっとも、この険しい山中を十日近くも彷徨して、まだ歩き回れる体力はとても普通の少女のそれではない。
 彼女がひときわ大きな岩山を回り込んで、稜線の向こう側をのぞき込むと、景観は大きく変化を見せていた。岩山の麓に、豊かな木々に囲まれた湖と河、その湖畔には岩壁に寄りかかるように、しっかりとした家屋が2棟。河には水車小屋まである。そしてその向こうには断崖と、それを囲む鮮やかな海の蒼。それまでの黒々とした岩とまばらな灌木だらけの景色からは、まるで趣を異にしていた。
「!……やった。」
 その風景に一瞬息をのんだ少女は、安堵の表情を浮かべてへたり込む。少なくとも飢え死には免れられそうだ。そう考えた瞬間、張りつめていた緊張が抜けたのか、急激に眠気が襲ってきた。目の前の光景から色が抜け、目の焦点が一カ所に定まらない。
「あ、やば……。」
そういえば、丸二日以上何も食べていないし、前寝たのは確か……。
 少女の意識が途絶え、その姿が倒れ伏すと、かなり離れた岩山から人影が走り寄る。その姿は数日前から彼女を監視していたこの山の主であった。男は、6尺を超えるその身に気を失った少女を担ぎ上げると、目の前の我が家に向けて降りていった。


「グキュルルゥゥ〜〜」
ひどく切なげな腹の虫の鳴き声に、少女は目を覚ました。見慣れない天井に驚いて辺りを見回すと、見覚えのない民家の一室だ。この西方ではほとんど見かけない、板敷きの床に障子戸の作りだ。転じて自分を見下ろすと、フカフカとした布団に寝かされている。
「!!」
ガバッと布団をまくって、警戒するように佩刀を探すがどこにもない。立ち上がろうとして、自分の着衣が見慣れない衣服、それも、素肌に浴衣一枚という姿に声を上げようとして……
「キュルゥゥ〜〜〜」
再び鳴り響いた己の腹の虫に、赤面しながらへたり込んだ。
恥ずかしいやら、お腹が空いたやら、混乱する彼女の思考にさらに追い打ちがかかる。
「……どうやら話を聞くよりは、まず食事を出した方が良さそうだな。」
「…え!?」
いつの間にか障子戸が開き、戸口から窮屈そうに覗き込んだ人影が、苦笑を浮かべて彼女を眺めていた。年の頃二十歳かそこら。ひどく整った容貌に困ったような苦笑を浮かべているが、彼女の視線はその上の瞳に釘付けになった。深い深淵を湛えた瞳には、いくつもの色彩が溶け合い、貫くような鋭い眼光の中に揶揄と好奇心の輝きを投じている。
(目を、離せない。)
陶然と見つめる少女の様子に、長身の男はいぶかしげな視線を向けると、まぁいいか、とばかりに肩をすくめて背を向ける。
「食事を用意してある。こっちだ。」
はっとして立ち上がった少女は、板張りの廊下を進む長身の背を追った。


 少女を別の部屋に案内してちゃぶ台の席に着かせると、男は隣室の台所からおもむろに配膳し始めた。お茶碗に白米、莢隠元とジャガイモのみそ汁、鰹と茄子の煮付け、竹の子と山菜の煮物、冷やした枇杷の実、箸と匙、湯飲みに冷えた水。男は、見慣れない膳に面食らう少女の向かいにあぐらをかいて座ると、自分の目の前の膳に手をつけ始めた。
「遠慮せずに食べろ。二日食べていないだろう。」
「え?」
当惑する少女をよそに箸を進める男。少女は二度三度男の手つきを見つめると、見よう見まねで箸を使い始めた。しかし、握り方がおかしいのかうまく使えない。
「待て。」
「あ!」
男は四苦八苦する少女の手を取り、箸を持つ手をつき直す。あまりに自然な動きに抗う間もなく手を握られてしまった少女は、男の説明に頷きながらも俯いて頬を朱に染めていた。
「あ、ありがとう。」
礼を言う少女に軽くほほえみ返すと、男はおもむろに食事を再開した。少女も慣れない手つきで箸を操り、目の前の膳を平らげていった。見慣れない料理は、少女の慣れ親しんだ味とはずいぶんと違ったが、薄味ながら深みのある味付けは少女の舌にも好ましく感じられた。
 二人がすべての皿を空にし、腹が幾分落ち着いたところで、男が口を開いた。
「名前は?」
「え?」
唐突な呼びかけに少女が戸惑うと、男は再び名前を問うた。
「小人族の長、ラヨロのイズルオが娘、ヒヅルと申します。」
少女、いや、小人族の戦姫が丁寧に答えると、男は落ち着いた声で返す。
「私は、夕影。遙か東の生まれだが、今はこうしてオルザンク山で隠者のようにして暮らしている。」
「わたしは、あなたのお力をお借り…」
ヒヅルが話し始めると、夕影はそれを押しとどめた。
「今日はもう遅いし、お前さんも疲れている。今晩はゆっくり休むがいい。話は明日伺おう。」
「しかし!」
「十日もかけて探したのだ。たかが一日延びても、どうと言うことは無かろう?」
「……わかりました。」
「では湯へ案内しよう。こちらへ」
夕影は、すっと立ち上がるとヒヅルを廊下の奥へと誘った。


 湯殿は別棟の外れに隣接しており、半屋内の露天風呂となっていた。石で組んだ広い湯船に、温度の高い湧泉と河の水を引き込んでいる。母屋と別棟の作りも人里離れた隠者の住処と思えない作りであったが、この温泉にはヒヅルも驚かされた。地下に住み、鉱山を一族で営む小人族にとって、温泉は最大の娯楽の一つだ。だからこそこの湯殿が、どれほど贅沢なものかわかる。差し渡し三丈四方もある広々とした湯殿からは、海に向けて開けた眺望が見渡せる。ヒヅルは思わず感嘆の声を上げた。
「凄い!!凄すぎるわ!!」
「喜んでもらえてなによりだ。ここに客を迎えるのは初めてなんでね。」
「ね!すぐ入ってもいい?!」
「ああ、好きに使ってくれ。着替えは用意しておく。」
夕影が苦笑しながら出て行くのを一瞥して、ヒヅルは浴衣を無造作に脱いで脱衣室に放り込んだ。
「えっへっへ〜。こんなお風呂がこの世にあるなんて〜♪」
白い肌に湯を打ちながら、喜色満面のヒヅル。その脳裏からは、ここを訪れた目的が少しずつ溶け出しているようにも見えた。


 湯から上がったヒヅルは、つやを取り戻した銀髪を腰まで下ろし、夕影の用意したとおぼしき浴衣に身を包んだ。青地に黄色い百合を描いた浴衣が、上気した白い肌に映える。幸せげにほほえむ表情と、裾を気にした楚々とした立ち居振る舞いが、健康的な色気を醸し出している。
 湯殿から戻ってきたヒヅルを、夕影は得意げにみた。目見当で寸法を合わせた浴衣が、ヒヅルの背格好にピタリと合っていたからだ。
「湯加減はどうだったかな。」
「結構な湯加減ね。少し温めでゆったりできたわ。」
「茶の間、……さっき食事した部屋に冷たい水を入れてある。少し暑気を払ってから休んだ方がいい。」
「ありがとう。なんだか迷惑かけてしまって。」
今更だが、訳も言わずにいきなり上がり込んで世話をかけさせている自分が恥ずかしくなったのか、顔を俯かせるヒヅル。
「気にしないでくれ。ここを建ててから初めての客だからな。私も嬉しいんだ。」
「……あなたは一体」
ヒヅルの言葉に、夕影は言いにくそうに苦笑を漏らす。
「話は明日にしよう。私はまだやることがあるので、先に休んでくれ。」
「え、ええ。」
「部屋はわかるか?」
「ええ、大丈夫。」
「わかった。では、ゆっくりお休み。」
「お休み。」
夕影が笑みを漏らしてヒヅルに挨拶する。ヒヅルも笑顔で返す。踵を返して廊下の奥へ消える夕影の背に、ヒヅルは問いたげな視線をかすかに送るが、答えはなかった。


 ヒヅルが客間に戻り、布団の枕元をみると、先ほどはなかった佩刀が置いてあった。ほっと息をついて大太刀を手に取ると、鯉口を切って刀身を引き出す。この数日で減っていた刀油が張り直してある。また、かすかに浮かび始めていた身錆も落としてあった。夕影が手入れしたのだろうが、ヒヅル自身よりも適切な手入れが施されている。自分の愛刀を自分より知っているような気がして、かすかに嫉妬に似た気持ちが浮かび上がる。
 それにしても、夕影とはどういう男だろうか。ほんの数時間共にいただけで、ヒヅルの思考はあの長身の男のことで満たされている。結界は何のためにあったのか。彼女を追い返さずに招き入れたのはなぜか。炊事も裁縫も達者にこなす上、どうやら大工としても職人並みのようだ。また、刀剣の扱いにも詳しい。なぜそれほど多芸なのか。
 だが、それらの疑問よりも、ヒヅルの脳裏から離れない疑問があった。彼は隠者だと言った。ならばなぜ時折寂しげな苦笑を浮かべるのか。なぜ、「客が来るのが嬉しい」のか。なぜ、この家はこんなに広いのか。
 訳もなく浮かぶ疑問を考えるうち、胸が苦しくなる。なぜ、夕影の顔を思い浮かべると鼓動が早くなり、息が詰まるのか。
 疲れがヒヅルの思考を眠りの沼に引きずり込むまで、小柄な戦姫の胸はいつもより早めの鼓動を刻み続けた。


 別棟の廊下の奥に、普段開けられることのない扉がある。夕影はその奥、岩山にくりぬかれた洞穴の入り口で、中を見下ろしながら一人物思いにふけっていた。眼前には彼の工房が広がっている。手前の方には日用雑貨である鍋釜や、ちょっと見何に使うのかわからない道具などが置いてあるが、奥には無数の甲冑や武具が置かれている。ここは、彼が師から受け継いだ、龍狩りのための英知が詰まった場所だ。不滅の存在として恐れられる龍を滅ぼす。そのためだけに集められ、研究され、作り上げられた道具は、いまはその役にも供されず静かに眠っている。
「師父。どうやら時が近づいたようです。」
夕影、いや、龍斬皇エリフは一人つぶやく。
「私は、彼らを許せません。さりとて、彼らを見限ることもできないのです。」